演劇台本(日本野球受容史~あるRCの歴史と重ねて)一~1

第一幕、時代1913年 所

第一場 札幌農学校宮部金吾教授室

登場人物 学生A、学生B、宮部教授、佐藤総長

(ノックの音 教授室前)

A「先生今戻りました」

B「(弾んだ声で)今回は割りと収穫がありました」

宮部「開いてるよ。どうぞ、入りたまえ」

(学生二人入る。手には野球道具を持っている)

宮部「それでどうだったんだい。バットは手に入ったのかね」  

A「勿論です」

B「そればかりではありません。これをご覧ください(ミットを宮部に示す)」

宮部「なんだい、そりゃミットじゃないかい。そんなものどこで手にいれたんだい。」

A「話せば長くなりますが、先生、まずこのバットの方からお話をしましょう」

宮部「そうだね。これは中々本格的な奴じゃないか。僕はもっと木を素朴に切ったものと思ってたよ。これは先の方が太くて使いやすい。」

B「そうなんですよ、先生、僕らは先生のお知り合いの原田木工場にご指示通り伺ったわけです。そうすると偶々おやじさんがおられましてね、それでわが母校の札幌農学校も本州の大学に伍して野球というものを始めたい。監督はアメリカにも行って研究の傍らそのやり方を見聞きしたおやじさんご存じの宮部先生が監督をなさる。それについてはバットという打つ道具を必要としてるのだが中々手に入らない。そこでおやじさん、こういうの作れるかいと予め描いていったバットの図面を見せますとね、そんなの簡単さとその図面を手に取り息子さんに見せたんですわ。この息子さん中々器用な人でしてね、あっという間にこの丈、そしてこの太さ、このくびれで一本の木からこれを拵えた訳ですよ」

宮部「ほー、そんな器用な息子さんいたのか」

A「頭はちょっと禿げ上がってましたがね腕は確かでこの通り」

宮部「それでそのミットのようなものはどうしたんだい。私は原田さんの所へ行ってバットに替わるものを何か見つけておいでと言っただけで、まさかミットが手に入るなどとは思ってない」

B「それはこいつの機転です(とAを指差す)」

 

昭和天皇の武士性について2

三島さんの東大全共闘との討論記録に、まず君たちは天皇と口にすべきだ、それでないと闘争は勝てない、との分析的注文があるのだが、これは要するに天皇をくっ付けたほうが維新の時だってなんだって民衆が味方するというフランスにだってあっただろう王党派のフランスなんかとは違う日本流解釈をしてる訳だけど、それが常に錦の御旗になるにして、同じ討論の一部に古事記を持ち出してきて天皇制の分析もしている。従来、特に戦後に始まった儒教天皇について非常に不満である、古事記のなかでヤマトタケル父親がめかけにしようとした女を兄貴のなんとかいうのが取っちゃったのでそれを怒ってその兄貴を八つ裂きにばらしてその屍体を父天皇の所に持ってくる。それを見て父天皇は驚いて穏やかさのないヤマトタケルは危険人物として遠征を命じる、それでヤマトタケル伊勢神宮かいって弟橘媛かに嘆く、ここが大事だというわけ、その理由というのはこの猛々しさも一つの天皇の属性であって、それに焦点あてて(少なくとも目配せして、古事記というのは書かれている。そこを天皇を論じる時飛ばすわけにはいかないんだというている。これは日本の歴史或いは天皇アポロン的に解釈するかディオニソス的に解釈するかということとも絡んでその主役でもある天皇がそうした武士的、或いは武神的要素も持っていたのか、少なくとも戦争の時死んでいった兵隊さんらはただ単に神様神様と思ってただけでなく、武勲を立てるんべく勇んでいる自分達を叱咤激励する軍神は武の神様でもあると確信してたかそれ故に死ねたのかに絡む訳ですよ。そうでなければ死ねないはずだという問題があるんだよね。

息子の帰還1-4

原(はる)には数駅でついた。そこから街中に戻ると教えられていた。でも目の前にあるのがその○組の何番かは分からなかった。一つの家に入って聞くともう少し上と聞いて上にいくと郵便配達の人がいた。具体的に名前出したが、今はそういう事教えられないと断られた。それでもその地番はあっちの道を降りて行った辺りと教えてくれたのでその通り行ったけど表札からしても簡単には分からなかった。そこに公民館があった。その名前には母親が書いてきたエリアの名前が付いていた。誰かいるかと中に入ったが誰もいなかった。見るとその公民館はその近隣の人の寄付も相当あって建てられたもののようで見上げると壁には寄付者の名前と寄付の金額を書いた紙が掲げられていた。そこに名前がないか探してみたが見当たらなかった。そうしてると公民館の関係の老人が入ってきた。悪びれずハガキを出してこのご一家知らないか聞くと聞いたことないと言われた。こりゃダメだな、ここにもいないし何処に行ったかも分からないなと、ガッカリした。それでもその老人は近くの古くさい家の人に聞いてくれた。しかしその人も老人だったけど見当つかないようすだった。それほど大きな町でないのに簡単には見つからないもんだと思った。でも警察にはいけない、それは彼の趣旨に反するだろ。あくまでその姉と弟に会わなくてはならない。その人達がそうかと探そうとしなくてはいけない。それがなくなってる母親の気持ちでもあろうという気がこの人探しの最初から自分の中にはあったのだ。今回はこんなもんだろうと帰ることを決めた。この行動がいつか彼と出会えたとき笑い話の一つになるのを願って帰途についた。その前に温泉にも入り東京に戻った。

三島vs福田2

息子の本読むとそのように書かれていて、あっそうかと思うのは三島さんが例の市ヶ谷でバルコニーから決起を促したが隊員から野次り倒され、部屋に戻って少し残念そうなことを言って(そこの部分は他の本に出ていた。それにしても憲法がお前たちの存在を否定してるのになぜ護る、反して共に立とうと言うのを野次込めた自衛隊員らにどこのツラ首下げて9条三項に認知を求める資格があるのだろう、腹を切る。柄谷なんて切り幅短いから本当には切腹なんてしてないと貶める。その時の三島の気持ちを元気な頃の福田が思いやる。その前提としての二人の対談が伏線だ‼覚悟を決める。事前から腹をくぐり精妙な気持ちになる。でもそんなものは嘘だ。行為の前の五秒前、その時に怯むことなく同じように堂々としておたおたせんでいるのか?それが大事なんだ、そこで男の価値とは決まるんだという三島さんに分かると応じる福田恆存。その福田がさっきの三島が演説を終えてさぁ腹を切る!その時の三島に起きた気持ちを福田恆存は(涙)なくしてソウキしえないと語ったそうだ。そう書いてある。三島は人切りなんとかの映画の役を演じたとき自分の弱気な性格が素の映画に出ていたと恥じた。福田恆存の目はそれを見抜いていただろう。でもしかし弱くて弱くてしょうがない人間であってもあの戦争の時は特攻してったんだろ。それとおんなじ立場に三島由紀夫は立ってたのかも知れずそれは美ではない恐怖かもしれなかつたけど、その気持ちをソンタクする福田さんには優しさがあったのでは友情と言えば言えるものがあったのだと思うのだ。まぁあの頃の人たちの想像力というのはイヤらしさのない良いところがあると俺は思った。

チベット論5

民族や国家が太刀打ちできない国家パワーに直面しその国が滅びるかも知れぬというとき現れ出てくるのはその民族や国家の最良なものでそれが幕末から明治にかけての天皇であり、欧米列強との所謂大東亜と称する戦の時の天皇の祭り上げだったのだろう。それなくしては勝てないという類いのもの、例えば今の北朝鮮で言えば核兵器等の手段的なものではなく、チェジュ?思想とかなんとかなんだろうが其は天皇北朝鮮人民には浸透していないから兵器で守ろうとする。これがチベットでは譲れないものとして、文字通り死と引き換えのものとしてのチベット仏教でありダライ・ラマなんだ。問題はでもその先にあってそれが対中国ということだけでなく対文明としても有効な、言葉を変えれば国家存続の前向きのキーワードとなるかということである。チベット仏教に殉じていきていくというのは今の世紀そんなに正しいことなのだろうか?という問題である。その否定要素として現世を快的に生きようとする昔の蜀の国の人、彼らは昔から生を楽しまんとして生きてきた、がどうも成都に来てバスからの光景視ていると々にも納得しうる感じに見えは初めてきた。