毎月にじゅうくにちは

日本人だけでないのかもしれないけど月の中で数字の日付にあわせて当日を○○の日とか呼んでいる。6日だって06の日にして、オムライスの日とか呼んでるの見かけた。勿論29日は肉の日です。こうみると食品関連多いのかもしれない。一月のうち少なくとも1日位思い出してほしいのかもしれない。でもこの29日の29は昔も今もにじゅうくにちなのであって、にじゅうくは日本人に特別の意味がある。いやあったに最早変わったかもしれない。

先日、ここの小劇場zooで井上ひさしの父と暮らせばやっていた。一時間半ほどの二人だけの舞台、原爆で死んだ父さんが生き残った原爆症未発生の娘の不安な気持ちを察して幽霊的に甦り会話し励まし助ける。この励ましの言葉は小劇場全体に伝わってきた。でも娘役は吉永小百合だってできるけど、父さん役は橋爪功なんかでは無理だ。これは幽MOREなんかではないもんでひねってある。そのなかで原爆落としたのはBなんとかで29…とは違っていた。

29日をB29の日、国民皆で空襲を思い出す日にしようなんて試みるいしは日本人には昔からないんだろう。毎月にじゅうくにちは肉食ってろ‼

あるそよ風少女の話

夕暮れにぼくはちゃりを走らせていた。信号で止まると女の子と少女の中間のころの人が独りこれから歩いて横断歩道渡ろうとしていた。その人は信号待ちしてる僕を見てこういった。「随分久しぶりですね。よくおじさんのこと見かけたんですよ。気がつかなかったかもしれないけれど。」彼女は横断しようとしたけど、久しぶり僕を見たのでちょっと話してもいいのかな、と足を止めた風だった。その話し方は年齢の割には大人びていた。僕は第一に少女の年齢が気になった。「いくつなの」「18」「そうは見えないけど。」「若くみられるもん」「18だったら話してもいいよね」「どうして」「もう大人だし」「年齢なんて関係なく大人だよ。おじさんとおんなじ」「おんなじかどうかはどうやっても確認できないよね。」

 

機能としての人間ともう少し動物側の人間と

江藤淳幼年時代というのは奥さんが亡くなって生前の江藤の母親の着物から奥さんがこしらえた布地の細工品の話から始まる。ドキドキする良い文章である。江藤淳が結局は特攻隊みたく母性に回帰していく様が如実に現れている。人は男はみな母親に先祖返りしお母さんありがとうございました、と死んでいくと云うけど、それはある意味特殊な状況な人であり、その種の能力があって初めてできることで普通のオトコハそこまで行かない。平凡な死を迎えるもんだと思う。そうした出来のよく育ちが良かった江藤少年のスコシノ問題点というのは恐らく家族の情が深いということだろう。そして男らしさをコレはまた三島由紀夫とは違うとはいえ追い求めたということだ。それなのに彼ら夫婦には子が授からなかった。その生物学的由来は知らないし興味もない。愛情に容積も重量もあるのかは分からんが何かそれには過大なモノト思わせる数値がある。それが江藤さんは大きくて、自分らに子供が居ないばっかりに、弟子や周囲の関係者にトキニハ烈しくトキニハ柔しく与えたんだろう。そういう観察記録も他人が書いていた。子供が授からなかったのは辛いことだったんだろ。でもソレをフウフ愛情で乗り越えた。あんな荷豊富に愛情がある人が、エドウィンフィッシャーのモーツアルト聞いて遠山一行さんが愛情がポタポタ落ちてくるピアノの音と言った、その愛情之ポタポタがせき止められ、トキニハ烈しかったりトキニハ柔しくあったら周囲の人は普通参る。それが分かる江藤さんくらいになると、その人に対する態度は結局自分自身の価値はその与える力と錯覚することになる。そしていやそうじゃないお前はその為に生まれてきたんじゃないと優しく言う人が出てこなければその錯覚は容易に溶けない。動物だから子供ができるんだ。知性を問わず子供が産まれる家があるんだろう。そこの過程で踏み間違えなければ自分が機能だけでないことの生きるは生殖ではないことのなんというか時間の必然みたいなの理解できルノではないかなと思う。人間は諸々の喩えは社会的機能としての存在ではない。機能なんてクソ喰らえだ。アニマルでなくてでもぐうたらも含んだ動物としての側面、機能を問うから自分を処することになる野ヲ回避しうる側面があることを、やはり宗教と謂うのは教えてくれるんだろしそこに到達出来なければ今までの自分がなくなる、決して他人を機能として眺める良くないし、自分でそう思うのもよくない。脳梗塞だろうと肝臓がんだろうと、どうなろうと人間さまは機能で測られるものではないと江藤もいうべきでなかっかと思った。

国家と国民の男性性と女性性について

イザベラバードの朝鮮紀行をかじると十九世紀末の事情ではあるにしても朝鮮の未来を暗示してるところがある。そのターニングポイントが日清戦争のころではないかなと推測させる。どんなターニングになったと言うと朝鮮からみた宗主国の中国が敗れ去るところ、日本が浮かび上がって来るわけだけど決してそれは日本を認めるということにはならない。敗れてもまだ中国に従っていたいという国家意思、国民性があるというところである。青春小説風に言うと、お前あんな弱い奴と付き合わないでさ、強い俺と付き合えよ!と言っても、い~えわたしは中国君好きなの!とリフされる時である。そんなにお前中国君すきなのか、俺だって良いところあるぞ、と強引にシソ改正したってダメなのである。強姦的に併合なんてしたってかえって嫌われるだけであるぞ。そんな朝鮮という国家(仮にあるとしたら)は又その国民性というのはすこぶる女性的なのじゃないかと思った。昔好きだった人は一生忘れられない人たちなのである。全面的にこう考えると幾つかの事が裏付けられる。約束ごとを簡単に破る、慰安婦などの被害届が徴用工より先に来るし説得力あると思ってる、中国からなんかお前なんか要らないよと言われると急に寂しくなってなびく、こういう男性国家の戦争しあった男子国家の日本と中国の狭間にキーセン的伎芸の国として極めて現在では希な女性的国として北朝鮮と韓国はあるのだ。これまでの北朝鮮のホラを含めた脅しの文句すらあれは女断末魔の叫びのように聞こえてくる。耳のせいかな🍀

1950年代という時季

家に戻り、雑誌の中で江藤淳の追悼対談を柄谷行人と福田順也?がやっていて江藤から九歳くらい若い柄谷が江藤評価併せて吉本隆明評価を専ら1950年代の著作や思想展開を最大値とする思いの表白にある意味心打たれた。三島さんにしても50年代が華だったのかもしれない。あの時に何があったのか、楽しい少年時代でしかなかったワタシには分からないけど、でもそれ以降の落ちぶれ感からすると、生きるのが楽でしょうがなかったという思いが強い。なぜなんだろな~

人間が一ミリ動くスピードはみんな同じで、でもその共通性の中で、誰かがぽーん時に飛ぶように動く。運命はその人に与えられるものだけど、それが誰に与えられるかは才能の問題というより、懸賞金に当たるようなもの。その後のバブルの時と同じで、使い捨てで無い人間が、救われるのは何か時代の手で引っ張られるようなもの、それらが明日を楽しませ、革命でもないが精神的自由を齎していた。今はどうなんだ。小うるさくなってきた、大モノももういない。振り返るとあの時代、同じように粒の友達というのがいた気がする。それが気がかりで支えとなってなんか自分だけの行動でもみんなでやってる気になれた。坂本九の歌の中にだって友達というのがあったしね。社会的友達、ダイジなんだろうかな〰❤

ある株主総会三

彼が自分の中でどう思ってたか分からない。或いは自分は気難しい性格で些細なことにもこだわり、人とは打ち解けずらい性格の持ち主と思ってたかもしれないのだが(ある意味そういう要素も窺われたが)しかし彼が他人に接するときはにこやかな笑い顔を浮かべ、決して何かを隠さず、また他人の意見や意思にも反せず、まっすぐに自分と接してるんだなと思わせる感じがした。彼にとって難題のような言葉を誰かが発したとき、一瞬きょとんとする顔になるが、すぐに元の笑い顔をして、その意味は自分ではこういう良い意味として受け取ってます、という応対をした。この性格は先代の社長とは大きく異なり、先代が亡くなってから彼が社長になって以降、已然にもましてその食品会社の業績は上向いた。労働組合があって古手の専従の組合員もいたが、彼が社長になってから、何かやりにくいんだよな、と周囲にも漏らし、それだけ彼が社長として以前からの労使の関係をある時は強くある時は時間をかけて放置するなどして巧みに問題点を解消していくことに、回りからも以前の社長とは違うという期待が上がっていた。そんな彼が私のことも気にかけ遠い土地とはいえさほど難役とも言えない監査役のポストを斡旋してくれるのは経済的なものばかりでない私との繋がりを重視してくれているようで今回の出張は列車に乗る前から私の心のなかに弾むものがあった。

三浦瑠璃のアホすけ

トランプ台風が通過して韓国に上陸したあとになって、その台風被害が報道されるなか三浦瑠璃がブログのなかで今回の武器の押し売り(日本は勝手にアメリカ国内の武器乱射の度に火武器かを自分らより劣った国をみるかのように声高するのに)を肯定もし安倍とゃん苦渋の決断みたいに誉めこそすれ決して国益に反してないと擁護し、かつ安倍がトランプにとり忘れられない存在感がある化のように幻想振り撒く表現を使って、安倍さんのやることはみんなの国益に合致すると述べた。森ランマル見たいな女だ。三浦瑠璃は討論の時相手を見るとき一端眼を伏せ下から見上げるような微かな眼を作りいつも辛辣なことをおしゃべる。特に相手が女の時は、女しか分からない対抗心でもあるのか小馬鹿にする風のニヤを口元に、ふんを鼻先に浮かべる。三浦瑠璃から東大帰属、美貌を取り去ればそこら辺の誰とも変わらぬ一論客でしかない。自分がある分野で肯定的評価感じとるのは生きてくために(何となく講演料利権があるのだろうから)必要だろう。でもだからああいうトランプだから日本、集団的自衛権通しておいて良かったねは、何となく論理の破綻の前触れのような気がする。一対一ではとても勝てる相手でないからここでドナルど、三浦瑠璃のアホすけ!ついでに言うと娘イバンカというのはイヴァンカと書くのが正しいのではないか?そう書かないのはイヴァンカではイワンのバカ!連想させるからかな?アホにしてもバカにしてもある守備範囲で動く女しかいないのは男にとって不幸だと思う。