馬琴〜露伴の水脈

田舎者なりしゆえ(明治開闢からこの方ばかりでなく昭和中旬に上京なりし立場も含め、)江戸文化を引き継ぐ東京、特に戦後東京、更には平成の御代の今日、様々の東京スタイルがあった訳だが、そのいずれにも馴染めぬ、自身の立場に付き、川村二郎が解読するところの、粋通訳知りの文化とは、遊廓の間から拡散した害毒的表面上のものであって、それすら理解出来ぬ、薩長土の野蛮は論外として、そのコアの部分には「俗に背いて独り往く」馬琴がおり、それに連なる露伴があったと、いうのは、対立構造としては頗る興味を引く。粋とか通とか訳知りとかは所詮ポップカルチャーであって、そうではないそうとは違うもの、多分それは徳川側300年の武士文化の賜物なんだろうが、それを今も誰かが承継している。しかしソレもあるいは、粋通訳知りのレベルまで堕ちることもあったりする。これって中々難しいものだな、と又露伴さんなどは、恐らく京都と対峙させて自らを律してたものとも思われて、日本文化の複数性を教えられる気がする。ところで、一体誰が粋通訳知り外で日本で活躍してるのだろうか?

事の真相

世間で取り沙汰されてる改ざん云々(デンデン)の行方は予測がつかないが、この件は終局、疑獄までは発展しないんだろ。まず夫人が無防備な人で取り込まれてるのを意識してなかったのは確か。お嬢さんで善意善意にお育ちになり、他人の下心等という下々なことはテンから分からない人なんだ。多分、この土地はいい土地ですねぇとは言ったんだろ。ソレはコメも取れ、ガキたちが丹精込めて収穫するのを楽しみにと名誉園長?までオッケー出す人だもの、それくらいは言った。でもソレはお米栽培の事で、何もゴミどったらとか、取得が上手く行ったら良いですねという意味からではない。其れを捕まった人は、上手に援用して、いい土地≒この話進めて、と脚色した。大した演劇性があるお人だ。それを聞いて、役所としては夫人が前のめりで暴走してるな、とハラハラしつつも、総理の肝いりと判断した。少なくとも、夫人には静止できないものと判断した。そこがどうだったか。近畿という田舎役所に目利きが居なかったのは確かなんだ。そこに来て、複数の公職の人からもお話があった。この人達は忖度だったんだろ。でもそこで初めて国民会議というグループが浮かび上がる。ゲげ、こんな総理+役所長まで入ってる集団があったのか、日本はこういう人達で動いてるのか、それなら乗るしかない、少なくとも逆らっちゃまずそう、と役所根性丸出しで、話はとんとん拍子で捕まった人の思う壺で進む。どうもそこんとこで、確認とか何とか合っても良さそうなんだが関東関西で連携が悪い、聞けなかった。そこが喜劇(悲劇)の出発点。その第二弾は、国家でのトップの私も夫人も関与してないの、近畿役所からするとエエエの発言、ココにボタンの掛け違いの二段目が発生した。

日曜日はだからローストビーフなのだ!

ツアーのロンドン自由日わずか2日の一日目は日曜日の今日。開店時間は遅く、閉店時間は早いもののお店もレストランもオープンしててくれるのは、そうした観光客にはここイギリスはありがたい場所。檀家周りではないですが、旅行社から貰った一日乗車券を使いまくります。まずスポーツ店によりそこでは買わず、買ったのはレイトンのTKMAXX  での茶漉し?だけ。昼ランチに予定してたそのそばロンドン東のポルトガル料理屋さんでは予約無しではけられ、腹空かしつつ西に小一時間かけィーリングブロードウェイに移動。大体ロンドンは西高東低、同じゾーン3でもこっちサイドでは日本人家族が目に付く。謎にバスが来なかったので、待ちくたびれ近くのPho屋で食べたのは選択ミスだったかも。着いたパブは日曜日に限りローストビーフローストポークなど二三枚に付け合わせ、これが家族客、恋人客には凄く混む、和やかにCOM。日本人はあまり見たことがない。仕方なく(と言っても、一人でこのパブでローストビーフ喰ってても、周囲には当然溶け込めない訳で〜、それで持ち帰りに。ありゃりゃ、この端末では、肝心のローストビーフ映が出て来ない。其れはまた別の機会にしましょ〜

イギリスの地政とスポーツの発祥の関連性

ツアーで早朝ロンドンに着き、一泊2日でコッツウォルズ、バース、ストンヘンジと廻りロンドンinしたところです。ここイギリスでは温泉町バースも日本の様に火山噴火の齎らしたものではなく、地熱がうまいこと冷えずに上昇してきた結果らしい。バースは渓谷の中にあるものの、そういえばイギリスには山らしい山は見かけませんでした。国土全体はフラット、移動もほぼ平地を進んでロンドンまで来ました。起伏がないから、フットパスも成立するのかもしれないし、それと雪山がないからイギリスは冬季五輪では活躍できない。

それで思ったのはイングランド発祥のスポーツというのは全てフラットな平面で行なわれるものが多いんじゃないのかしら?ということ。

サッカー、クリケットや乗馬がそうでしょうし、何人乗りのボートというのも平坦な地政を活かしたもんでしょ。ゴルフは少し起伏がある必要もあるのか、発祥はイングランドではなくてスコットランド⁉だったりするんだろうかしら。真理かどうか分かりませんが、なる程な、人間はその土地の様相、地勢に合わせてスポーツを創り出すもんなんだろうな、とそう思えました。例外は有るかもしれませんが。

この世の肯定性3

謂わば、目前に満ちて見える世界からの肯定的な受け入れというのは、一種のSIMカードの承認のようなものなのではなかろうか。それが装着され通信している時は他人と共同主観的に会話をし、認識をし、その一員として暮らせていける。しかしそうでない時、通信が閉じたとき、その時は個人としての苦しい戦いが強いられ、会話も共同認識も同じような主観の共有を持ち得なくなる。それに打ち勝つ人、耐える人もいるにはいるが大抵は敗れる。ソレを救うのはそう簡単ではない。救おうとする人と救われるべき人との間には共通のSIMカードは最早ないからだ。その辺を誤解する善意の人は結構多い。しかし救うことは困難なことなのだ。手を差し伸べるだけでは足りないことがこの世の中にはあるのだ。ではどうやったら救いは訪れるのか?

この世の肯定性2

人生とかが肯定的であるのか否定的には受け止められたかは、そのどっちかという地平の問題ではない。肯定性か否定性かは同じ平面の問題ではないのだ。両者?は次元を異にしてる。そこは廣松渉の解く共同主観の考え方が理解を深める。彼自身がどう思ってたかはよく分からないんだけど、肯定性があって初めて共同主観が生ずる。人々は同じ思惟の土俵に立てる。否定されたとき、その時は共同主観などにはなり得ない。謂わば肯定性は共同主観へのキップである。だけど、そのキップを持ち得ないときは悲惨なことになる。共同主観から排除された人たちは個別の世界、個人で処理すべき内面と外界の世界に赴かねばならない。それは社会から排除されたということではないが、全て解決すべきは本人の努力に委ねられる。自殺者は集団から排除されたからそうするのではなく、自分の力で解決するように強いられるからそうするのである。肯定性を感じ得ない主観という、社会的なものが個人の主観に墜ちるからそうしてしまうのである。

この世の肯定性について

空港にはどこに連れてかれるのか母親に沿って小さな子供が動く。まだ小さく、服装もあって男か女かの区別もつかない事もある。何かを無作法に或いは不躾に頬張る。母親は電話をしている。窓ガラス越しに飛行機が離発着しそっちへと届かぬ腕を差し出す。姉もいる、随分若いときの子供なんだ。

ふと思い出す。何も喋れないとき、あの時の幸福不幸をとおてもそれはしょうがない。でもわたしが生きてこれたのはとまで言うつもりがないが、でもしかしそこには何かの自分を肯定的に受けとめてくれた何かが見えない感じで、しかしそれは感じられるレベルで存在してたんだろ。ソレを今思い返しても何だったかは分からぬが、親の愛とか、そういうレベルより低いか高いかも分からず、そしてそれは自然の明るさなのか社会的な囀りなのかもわからないけど、確実に自分をはめ込んでくれる肯定的安らぎがあったのだと。死はそれらを全て覆すことであろう。そういう進行も始まっている。むしが良いが、迎えられて送られるのが良いのだけど。