秩序は上から降って来る

片付けができないというのは、自分の中に秩序がない、あるいは秩序を求めない人間であるからだろう。そうした感覚というのは、人々の一人ひとりの問題ではあるが、社会性との問題でもある。社会の秩序をあまり認めたがらない人は、極論片付けができない人でもある。その社会にしたって、秩序正しいというのがどこ由来の基準なのかは確実に言い得ない。属してる人の考え方の集積という人がいるが反対ではなかろうか。秩序と裁きとは違うけど似ているところある。裁きは各人の秩序感覚の集まりではあろうが、そればかりでなく外側からやってくる側面がある。昔は神の審判としてやったように、今だって外からの要素を捨ててはいない。最近の報道されてる事案見ていると、結論は具体的に何と見いだせないものの、いつか空から降ってくるように結論、秩序ある結論が出されるのだろ。それを誰かが操作して導いたりできるものではない。どうしてそうなるかは分からないが、人間の一つの属性として、あらゆる事は全て空から降ってくるんだ、雨だって雪だって、そうであるように、上からやってくるということに親しむ傾向があるのではないだろうか。昔ながらのお天道様に聞いてくれという庶民の声は正しい、と思いつつ下らないことで又片付けが頓挫してしまった。アカン、両親が既に死んでいることがこういう場合あるいは大きいことなのかな。

廣松渉の主著について

岩波の文庫の中には世間の共同主観性の項目の中にデュルケイムの社会学再評価の記述部分が含まれてくる。これはこの人が非常に感がいい事を表している。単なる哲学的基礎だけでは飽き足らず、この世の中にはその基盤がわらわれの社会的存在、共に生きてる中にあるのだと関心を持ってたことを、納得しようとしている。その中でも特に道徳的基礎に何らかの解明口を探している。要するに我々が共に考えうるというのは、共に道徳的な基盤をこの共同体の中に置いてるから発するものなのだと発想している。これは本当かどうかはあんまり分からないけど、例えば先例のイジメの問題にしても、他人を愛せよ!という道徳規範からの逸脱とも見うるわけで、ソレを行わないことから、その対象が共同主観的存在から剥離していくようなことを表している気がする。我々が道徳的存在でなくなれば、あたかも社会という細胞膜は壊れ、共同主観の世界は崩壊すると言ってる気がする。或いはこれは誤読かもしれない。しかしその留保もつけつつ思うのは、例えば憲法、その憲法の中の平和主義条項というのは、要するに道徳規範ではないのかということであり、平和主義というのはただのお題目、されど意味深な道徳的お題目なのではないかということである。それは学級内の隣人を愛せよ、と全く同じ徳目、それ故に、そんなの出来るかと、容易に投げ棄てられる徳目、でもあったのでは、とその様な気がした。何も守るのがどうだと言うのではない。しかしアメリカ人が作ったなんか分からん、先駆けた憲法の条項の中には、将来コレで行こうとする日本の社会を規定する道徳律が含まれてた可能性がある。それは日教組がどうのとか、戦場には行かせない、との勝手読みを発生させつつも、ある種の戦後日本の共同主観を生み出す源泉としての共同体の様を規定してるところがあって、イジメがあるのと同様に、その道徳的要請に従わない事は、恐らく共同主観の崩壊~個人としてバラバラになるとの危惧が護憲グループにはあるのだろう‐。非常にまだるっこしいアナクロな道徳が今に適合してるかは良くわからんが、共にある為には、かつての天皇規範とか、戦後の憲法規範とかの社会をバインドするものがなければならず、それなくしては共同主観的存在としての日本人は、維持されず、ソレを変えるなら、更に強力な例えば独裁者とかが齎す規範とかが用意されなければならない。もうそれは着々と用意されてるのかもしれない。

小室哲哉小室圭小室等

かつて木村庄三郎でないところの木村尚三郎先生がご活躍なとき、木村先生はtrfが華やかに小室哲哉の作曲家としてのサウンド彼の作る音楽でこの世を充ち満ちさせてたのを概察し、彼の音楽には死の匂いがすると、えらい嗅覚を御示し申された。当時はむぅ何?でしかなかった。さて木村先生もなくなり、先日の会見を見聞きするに及び、不倫‥不能‥介護とふとふ、あらゆる人生の悲惨が飛散されんの目の当たりした上での感想というのは一概にいえない。そこには勝者でない人がいたが、そうかと言って敗者では決してない、時間は遅れたが陰画が見えてきただけのような気がする。小室圭様にしても、生母あさまに足引っ張られる気配ありだが、どうも何かを狙って失敗したとも思えない。小室等は武満と仲が良かったのだそうだが、これも意外感がある。誇らしさというのは、そう簡単ではない。守って守りきれるものではないというのが現代の特徴だ。守りきろうとするのは誰しもするだろうがそれができない。

ある意味で勝者と見えた人には暗い過去があるという単純なことなんだろうが、今というこの時代、それがバレてしまうのが時代の特徴なのか?とも思うが、そう簡単でもない。要するに、凝視される時代?でもそれだけでもない。人が他人の中に悪を見ようとする時代?それも少し違う。寧ろ嗅覚繁栄の時代なのか。少なくとも善意の時代は終わり、犬のように嗅覚を持ってる人がみちているのは確かかもしれない。

馬琴〜露伴の水脈

田舎者なりしゆえ(明治開闢からこの方ばかりでなく昭和中旬に上京なりし立場も含め、)江戸文化を引き継ぐ東京、特に戦後東京、更には平成の御代の今日、様々の東京スタイルがあった訳だが、そのいずれにも馴染めぬ、自身の立場に付き、川村二郎が解読するところの、粋通訳知りの文化とは、遊廓の間から拡散した害毒的表面上のものであって、それすら理解出来ぬ、薩長土の野蛮は論外として、そのコアの部分には「俗に背いて独り往く」馬琴がおり、それに連なる露伴があったと、いうのは、対立構造としては頗る興味を引く。粋とか通とか訳知りとかは所詮ポップカルチャーであって、そうではないそうとは違うもの、多分それは徳川側300年の武士文化の賜物なんだろうが、それを今も誰かが承継している。しかしソレもあるいは、粋通訳知りのレベルまで堕ちることもあったりする。これって中々難しいものだな、と又露伴さんなどは、恐らく京都と対峙させて自らを律してたものとも思われて、日本文化の複数性を教えられる気がする。ところで、一体誰が粋通訳知り外で日本で活躍してるのだろうか?

事の真相

世間で取り沙汰されてる改ざん云々(デンデン)の行方は予測がつかないが、この件は終局、疑獄までは発展しないんだろ。まず夫人が無防備な人で取り込まれてるのを意識してなかったのは確か。お嬢さんで善意善意にお育ちになり、他人の下心等という下々なことはテンから分からない人なんだ。多分、この土地はいい土地ですねぇとは言ったんだろ。ソレはコメも取れ、ガキたちが丹精込めて収穫するのを楽しみにと名誉園長?までオッケー出す人だもの、それくらいは言った。でもソレはお米栽培の事で、何もゴミどったらとか、取得が上手く行ったら良いですねという意味からではない。其れを捕まった人は、上手に援用して、いい土地≒この話進めて、と脚色した。大した演劇性があるお人だ。それを聞いて、役所としては夫人が前のめりで暴走してるな、とハラハラしつつも、総理の肝いりと判断した。少なくとも、夫人には静止できないものと判断した。そこがどうだったか。近畿という田舎役所に目利きが居なかったのは確かなんだ。そこに来て、複数の公職の人からもお話があった。この人達は忖度だったんだろ。でもそこで初めて国民会議というグループが浮かび上がる。ゲげ、こんな総理+役所長まで入ってる集団があったのか、日本はこういう人達で動いてるのか、それなら乗るしかない、少なくとも逆らっちゃまずそう、と役所根性丸出しで、話はとんとん拍子で捕まった人の思う壺で進む。どうもそこんとこで、確認とか何とか合っても良さそうなんだが関東関西で連携が悪い、聞けなかった。そこが喜劇(悲劇)の出発点。その第二弾は、国家でのトップの私も夫人も関与してないの、近畿役所からするとエエエの発言、ココにボタンの掛け違いの二段目が発生した。

日曜日はだからローストビーフなのだ!

ツアーのロンドン自由日わずか2日の一日目は日曜日の今日。開店時間は遅く、閉店時間は早いもののお店もレストランもオープンしててくれるのは、そうした観光客にはここイギリスはありがたい場所。檀家周りではないですが、旅行社から貰った一日乗車券を使いまくります。まずスポーツ店によりそこでは買わず、買ったのはレイトンのTKMAXX  での茶漉し?だけ。昼ランチに予定してたそのそばロンドン東のポルトガル料理屋さんでは予約無しではけられ、腹空かしつつ西に小一時間かけィーリングブロードウェイに移動。大体ロンドンは西高東低、同じゾーン3でもこっちサイドでは日本人家族が目に付く。謎にバスが来なかったので、待ちくたびれ近くのPho屋で食べたのは選択ミスだったかも。着いたパブは日曜日に限りローストビーフローストポークなど二三枚に付け合わせ、これが家族客、恋人客には凄く混む、和やかにCOM。日本人はあまり見たことがない。仕方なく(と言っても、一人でこのパブでローストビーフ喰ってても、周囲には当然溶け込めない訳で〜、それで持ち帰りに。ありゃりゃ、この端末では、肝心のローストビーフ映が出て来ない。其れはまた別の機会にしましょ〜

イギリスの地政とスポーツの発祥の関連性

ツアーで早朝ロンドンに着き、一泊2日でコッツウォルズ、バース、ストンヘンジと廻りロンドンinしたところです。ここイギリスでは温泉町バースも日本の様に火山噴火の齎らしたものではなく、地熱がうまいこと冷えずに上昇してきた結果らしい。バースは渓谷の中にあるものの、そういえばイギリスには山らしい山は見かけませんでした。国土全体はフラット、移動もほぼ平地を進んでロンドンまで来ました。起伏がないから、フットパスも成立するのかもしれないし、それと雪山がないからイギリスは冬季五輪では活躍できない。

それで思ったのはイングランド発祥のスポーツというのは全てフラットな平面で行なわれるものが多いんじゃないのかしら?ということ。

サッカー、クリケットや乗馬がそうでしょうし、何人乗りのボートというのも平坦な地政を活かしたもんでしょ。ゴルフは少し起伏がある必要もあるのか、発祥はイングランドではなくてスコットランド⁉だったりするんだろうかしら。真理かどうか分かりませんが、なる程な、人間はその土地の様相、地勢に合わせてスポーツを創り出すもんなんだろうな、とそう思えました。例外は有るかもしれませんが。