仮想通過としての我らの未来

その頃には私たちの衣服の素材のうえには自動的に値段が経常されている。例えば50、これはその人か最近書いた面白くないし小説の値段もあるし、旅行客にはこの金額でガイドできます‼️あるいはガイド本あなたにインストールできますとかの料金である。細かいことは瞬時に決済される。普通に仲間だちになる必要もない。ある欲望の決済が速やかに貫徹する。昼時になるとみんな何らかの意味で他人の役に立ちたがる。美味しい店紹介30、それでなくともお店そのものが貴方の嗜好(これはみんなあるところに登録済み)にあわせてベストチョイスを胸の板に送ってくるそのなかで980のハンバーグランチを注文すると、ご来店二分前と出てくる。決済は終わってる。ただしこれには価格10パーセントの範囲で異議権が認められていて、それが第三者査定で通ると減額できるが、二度とその店からの勧誘はこないだろ。段々そういう嗜好と対価の仮想通貨での決済の時期が見かずいている。最大の特徴は自分の全ての欲望が赤裸々に盤面にのせられところかな。

モミジしだく、紅葉だく、揉みしだく

戯れにあの紅葉の葉の大スケールでの展開が広がるある山の中を考えてみよう。ぼくらはそこにしかいない。美しいのは勿論だ。山の中でせきとして鳥の声しか聞こえてこない。ぼくらは嬉しくなるんだけど、それがどういう原因なのかは本当には分からない。落葉が少ししか色褪せずに残り、木の上の所より地上を幾層にも重ね埋める。深さの尺度がきかず、踏み込むのが怖いなと思う程度になってる。でもこの木葉に溺れる感覚はどうして水中なんかより新鮮なのだろうか。私はその大柄紅葉を軽く胸に当て、少しだけ沈む感覚を遊ぶ。それは山の中の紅葉、布団感覚、そんな中、一枚一番綺麗で他と同様に落ちたとはいえ、立派なのを見つける。その葉を胸に当ててぐるぐると回す。それは決して揉みしだくではないけど言葉が似ている分自分の胸板を自分に付属してくれる。寂しい感情なのもしれない。こんなとこに来たのは全てを期待してのものでもないけど夕日の紅葉はみたかった。辺りに誰もいない。これ以上変な格好で見つかりたくない。しかしこういうことを日本の古代人はしていた気がする。辺り暗くなり急いでエンジンを入れ、下界の戻る。

震災以後日本は変わっちゃったね論

2011/03/11以来日本人の心性は変わったのかもしれない。その後に安倍政権が誕生して、ただただ防衛してては日本は保たないという風潮が流れた。お笑いブームが来た。天皇が辞めたいとオっシャっタ。まとめ役はいなくなりまとめたいと誰もが言わなくなった。格差は付随的なものかもしれないが誰も他人に同情しなくなった。自分の美しさを追い求めている。力あるものが結局勝って当たり前だよとなった。天変地異が来たとき何かしら対処の方法があったのかな。ボランティアとか自衛隊が活躍したときの褒め方を忘れたのかな。東電はもっと下から謝罪すべきだったのかな。原発は潔くヤメヨウト決めるべきだったのかなと。確かなことは日本人にあの震災は確実に痛手をもたらした。その精神的打撃を治癒する方法が見いだせない。再生が全て嘘くさく誤魔化しのように見えて日本が蘇生していない。それ程の打撃、誰がリーダーなら解決できるのだろうか。

人界魔境の北海道のある地方

右折してからの少しの時間は多分来た距離よりは奥まったとこから抜け出すのだから来た時間より所要時間は要するのではないかという程度の感想しか持ち合わせなかった。僕はその部分を別のSNSでは魔境ではなくては夢幻郷に入ったと書いているが、気持ちは少し冒険家的なしかも車で護られて突き抜けてく快感も併せ持ったそういったいわば楽しく遊びたい気持ちだった。今だからこそ或いはあのエリアは本当は何かをもっと考えた方が良いエリア(それも当たってないかもしれないがという先落ちまであり得るんだが、と思う程度で深い理解には達してない。そもそも今からそこに誰かと出かけてって、多分僕の読み筋をその人に教えたとしても、きっとその人はポカンとしてあるいはそうかも知れないね、でも完全な事は言えないね、と釘を刺しかねない、そういった想いの危うさが伴う確信なのである。そうそれは確信なのだ僕にとっては。あんまりそういう事にはなれてないけど、多分誰かがよく見つけたなと言ってくれる可能性がある、それを言われたら大袈裟に言えばそうだよねそうだよなと手を取り合って喜びだしかねない、何か幻視がやはり人を引きつける根本の衝動を持った事だと確信さすなにかなのだ。仮に僕だけの発見でないにしても、そうした得て勝手な想像は人を喜ばせるものではないだろうか。でも本件発見ささやかな幻視だと思う。証拠なんてなくていい。証拠なんてなくても幻視したことは現実だったんだ。

論より証拠こう

池田弥三郎の本に単に論より証拠というのではなく、それには付け足しがあって「論より証拠、藁人形」というのが正しい?んだと書かれてる。これを単純に思えば、検察とかの立証の趣旨にはそれに沿った証拠が必要だという現在の用法の他に、コレは思念界と現実界とは違うのだと捉える用法も出てくるように思う。呪い殺、というのは何ら証拠を残さぬ犯罪である。江戸時代なんてそれで死んだという因果関係が推定されても頭の中の世界その中身を誰もが得心するように見せる事はできない。でもお前の持っていたこの藁人形は一体何なんだ、動かぬ証拠だと言われれば本人も一般通常持っているものでもないから申し開きはできない。しかも五寸釘が刺さった跡でもあると御用になる。どこか人間には付属品がついて来る物で、頭の中でだけの犯罪は実行行為ではない。必ず対象相手にアタックするにはモノを使うものなんだ。そこら辺お江戸の人達も分かっていた。人権意識ではなんでもないんだろうが思念というものに手を焼いてるとこは現代以上のものあったんだろう。

人界魔境の北海道4

取り敢えずもと来た道を戻るのはしゃくな気分がしてたので元来た道の曲がり角まで戻りそこから先に進んでいく。その先には別なゴルフ場の桂がある。それは知っていた。この先の道にはいつも変だなと思わす道路部分がある。それはその道路部分が桂ゴルフ場の私有地を通るしかないというとこだ。他に代替の道はない。逆方向からの千歳方面から桂に行くのはいい。しかしその先に行く為には桂ゴルフ場の敷地内を通らなくてはならない。どうして公道がないんだろ。今までの道とうってたら私有地、イギリスのフットパスでもあるまいし。桂ゴルフ場でも私有地ゆえ通行はご遠慮下さいと看板を出している。でもそこから引っ返す人は皆無、桂もそれ程強く強く交通ドメマデはしていない。その時もその道を通り、桂ゴルフ場の分岐点まで来た。表示板が見える。左は千歳方面、札幌へ(そこの道は桂にも何度も来たことあるから知っている)右回りはまた36に出る。しかしその道は36から来た道とは別の道である。舗装もされてない細道だった。お腹が満たされなかった腹いせに右回りした。そこが魔境の始まりとは勘付いてなかった。