特攻隊の死について2

よく世間で悲劇的な死とされるのは自分の子が溺れるなどしてそれを救おうと海に飛び込みその親の方が亡くなるようなことだ。この場合子どもの方が生存し親が死んだ場合一見喜劇的要素があるようだがそうではなくてその子どもには親を亡くしたという悲劇がある。救出が失敗成功を問わず親の悲劇があるがそれに加えて子供の悲劇もあるのだ。ダブルで悲劇的要素があることが親の死を感銘的にしているのだ。これが全くの他人の子を助けるために飛び込んで亡くなった時はかなり悲劇的要素を少なくする。そう見るとあるひとつの行為としての死は例えばそれを守ろうとしたものに多くは規定され、それが悲劇的であればあるほど死の行為の悲劇的性格を著しく顕著にするのであって行為そのものにはたとえどんなに意思的な意味付けがなされていても偶発的死とさほどの違いはないのではないか、寧ろ固定観念での死しか直面し得なかった場合の死というのは硬直したものであり、共に生存を目論み自己の行為の結果の幸福を願っての行為が逆目に出てしまいその結果としての死よりも少なくとも同程度、或いはそれ以下の価値付けしかしえない死なのかとも思わせるところがある。(以下つづく