昭和天皇の武士性について1

最近持ってたけど気にはなってたけど、長谷川三千子だったと思うけど(町子はマンガだし京子はなんか女優なんだろうし、NHKの経営委員を安倍シンパとしてチョと前就任し、最近の佐藤優の本でこの人物は野上弥生子の孫だと知った極右の人、さらば群青の野村耿介、この人はでも永田洋子と文通みたいなのしてて、でもそれも仲良かったけど、結果として左右をよく見よ的なものの一部をなしている群像の一部)その人の根本思想表明なる神は破れたまわずとかの本に折口信夫がチョと批判されていて、そのもって回った表現によって女の思いしれ!発想でバッサリ右翼とか大和信条の折口を刺してる本に、神風が吹かなかったのは私達国民の信心が足りなかったという折口に対して、何言ってやがると古来からの神国から解き明かしそうな勢いで昭和の敗戦を描こうとする本、これ読み始めると人間宣言をしたという文章までそれに封接されていて昭和天皇はそこであまり自分は神様であったけど普通の人間になったよと書いておられない。そこがとても人間イエスというのとパラレルな感じがしててそうでもない、あの人の奇跡というのと神国日本に吹くべき風、神風がなぜ吹かなかったのかの点で、時々見かける戦前の天皇の軍エッペイがあの人は自らを武人として位置付けられておられたのか、それとも武人たるものを越えた神性をお感じなられていたのかチョと不思議な感じを持ってしまった。神風ってそれは誰が吹かせる役割を与えられてたの?それが吹くと信じて特攻した人の最後の天皇陛下万歳玉砕と吹かなかったこととの失望感は一体誰が責任や慰めを負うのだろう。靖国神官が魂をのみ集めて商いにしてるのと左サイドに位置しなくてもそこの落差を埋める手だてを誰が負うべきなのかそしてそれらは武人として戦われたわけなのかそうでなかったのか、その時の天皇の位置がとても気になってきた。それは俺は神様じゃないよというより武神じゃないよという言い方の方が罪(仮にあるとすれば)があるのではと思い始めた訳です。