チベット論5

民族や国家が太刀打ちできない国家パワーに直面しその国が滅びるかも知れぬというとき現れ出てくるのはその民族や国家の最良なものでそれが幕末から明治にかけての天皇であり、欧米列強との所謂大東亜と称する戦の時の天皇の祭り上げだったのだろう。それなくしては勝てないという類いのもの、例えば今の北朝鮮で言えば核兵器等の手段的なものではなく、チェジュ?思想とかなんとかなんだろうが其は天皇北朝鮮人民には浸透していないから兵器で守ろうとする。これがチベットでは譲れないものとして、文字通り死と引き換えのものとしてのチベット仏教でありダライ・ラマなんだ。問題はでもその先にあってそれが対中国ということだけでなく対文明としても有効な、言葉を変えれば国家存続の前向きのキーワードとなるかということである。チベット仏教に殉じていきていくというのは今の世紀そんなに正しいことなのだろうか?という問題である。その否定要素として現世を快的に生きようとする昔の蜀の国の人、彼らは昔から生を楽しまんとして生きてきた、がどうも成都に来てバスからの光景視ていると々にも納得しうる感じに見えは初めてきた。