英語国語論

蛭子能収が英語について書いていた。主としてアメリカ旅行したさいの日本パスポートの煩わしさと英語が話せないことの反省が主な内容だった。蛭子さんによれば日本がアメリカの一州となり日本人が英語を母国語とすれば旅先で英語で苦労することもないのにとか書いていた。その頃蛭子さんはテレビにはあまり出てなかった。賭博容疑で捕まる前の頃だったかなと思う。今ロンドンに来てあんまり英語もしゃべれはしないけどその蛭子能収的立場からすると案外そのドライな説はいい意見だと思えてくる。

日本語捨てるのはそんなに簡単じゃないのかもしれない。かつて日韓併合したときそして其が解けた終戦までの35年間ハングルは禁止され日本語の使用を強制されてたんだろうがそれでも結局元に戻ったんだろう。多分日常生活で使っていればそんなに日本語は失われないのだろう。だとすれば捨てる必要云々する事ないのかなあ…

英語を国語化するメリットは結構ある。英語圏の文化や歴史が全て手にはいることとか。よくシェイクスピアを原語で読める人という表現があるがそういう深い理解が可能となる。英語での科学発表目的は受け入れやすくもなるのだろう。

 

でも最大のメリットというのは今どういう風に英語が使われてるかではなく、英語というのがこれまでの中で世界を征服した唯一の国の言葉であるという歴史性みたいなとこでないだろうか。民族は違えどそこに列なるというようなある種の精神性なんじゃないかという気がする。その安心感で言葉をしゃべる心地よさではないのかな。

最近の自分は日本忌避の傾向があり英語の国語化論に傾いている。