1950年代という時季

家に戻り、雑誌の中で江藤淳の追悼対談を柄谷行人と福田順也?がやっていて江藤から九歳くらい若い柄谷が江藤評価併せて吉本隆明評価を専ら1950年代の著作や思想展開を最大値とする思いの表白にある意味心打たれた。三島さんにしても50年代が華だったのかもしれない。あの時に何があったのか、楽しい少年時代でしかなかったワタシには分からないけど、でもそれ以降の落ちぶれ感からすると、生きるのが楽でしょうがなかったという思いが強い。なぜなんだろな~

人間が一ミリ動くスピードはみんな同じで、でもその共通性の中で、誰かがぽーん時に飛ぶように動く。運命はその人に与えられるものだけど、それが誰に与えられるかは才能の問題というより、懸賞金に当たるようなもの。その後のバブルの時と同じで、使い捨てで無い人間が、救われるのは何か時代の手で引っ張られるようなもの、それらが明日を楽しませ、革命でもないが精神的自由を齎していた。今はどうなんだ。小うるさくなってきた、大モノももういない。振り返るとあの時代、同じように粒の友達というのがいた気がする。それが気がかりで支えとなってなんか自分だけの行動でもみんなでやってる気になれた。坂本九の歌の中にだって友達というのがあったしね。社会的友達、ダイジなんだろうかな〰❤