機能としての人間ともう少し動物側の人間と

江藤淳幼年時代というのは奥さんが亡くなって生前の江藤の母親の着物から奥さんがこしらえた布地の細工品の話から始まる。ドキドキする良い文章である。江藤淳が結局は特攻隊みたく母性に回帰していく様が如実に現れている。人は男はみな母親に先祖返りしお母さんありがとうございました、と死んでいくと云うけど、それはある意味特殊な状況な人であり、その種の能力があって初めてできることで普通のオトコハそこまで行かない。平凡な死を迎えるもんだと思う。そうした出来のよく育ちが良かった江藤少年のスコシノ問題点というのは恐らく家族の情が深いということだろう。そして男らしさをコレはまた三島由紀夫とは違うとはいえ追い求めたということだ。それなのに彼ら夫婦には子が授からなかった。その生物学的由来は知らないし興味もない。愛情に容積も重量もあるのかは分からんが何かそれには過大なモノト思わせる数値がある。それが江藤さんは大きくて、自分らに子供が居ないばっかりに、弟子や周囲の関係者にトキニハ烈しくトキニハ柔しく与えたんだろう。そういう観察記録も他人が書いていた。子供が授からなかったのは辛いことだったんだろ。でもソレをフウフ愛情で乗り越えた。あんな荷豊富に愛情がある人が、エドウィンフィッシャーのモーツアルト聞いて遠山一行さんが愛情がポタポタ落ちてくるピアノの音と言った、その愛情之ポタポタがせき止められ、トキニハ烈しかったりトキニハ柔しくあったら周囲の人は普通参る。それが分かる江藤さんくらいになると、その人に対する態度は結局自分自身の価値はその与える力と錯覚することになる。そしていやそうじゃないお前はその為に生まれてきたんじゃないと優しく言う人が出てこなければその錯覚は容易に溶けない。動物だから子供ができるんだ。知性を問わず子供が産まれる家があるんだろう。そこの過程で踏み間違えなければ自分が機能だけでないことの生きるは生殖ではないことのなんというか時間の必然みたいなの理解できルノではないかなと思う。人間は諸々の喩えは社会的機能としての存在ではない。機能なんてクソ喰らえだ。アニマルでなくてでもぐうたらも含んだ動物としての側面、機能を問うから自分を処することになる野ヲ回避しうる側面があることを、やはり宗教と謂うのは教えてくれるんだろしそこに到達出来なければ今までの自分がなくなる、決して他人を機能として眺める良くないし、自分でそう思うのもよくない。脳梗塞だろうと肝臓がんだろうと、どうなろうと人間さまは機能で測られるものではないと江藤もいうべきでなかっかと思った。