共生と自死の間のすきま風

なぜか陰とんしているとそれらしく誰からも見られない自意識というのが発生し身につく。それって其ほど深刻ではなく海外に行けば子どもとも会話するし、怪しげな兄弟愛ながら話相手は東京に来ればいるわけだし、そこそまぎれるとこあるんだけど、先日名字で声かけられたその話をしようか。

 

誰もこんな社会にしたくてしたわけでもなかろうが仲間意識が派閥を作り、そのらちがいの人には手を差しのべない社会になっている。誰もがそれぞれ孤独をかみしめなければならない社会である。政府とかそういうまとまり組織はみんなが一緒に暮らしているんだよと思う吹聴しきく方もそれはそうだと思いつつも、孤独な人はどんどん増えている。この場合は要するに身も知らぬ人と一緒に暮らしているんだよ、ということなんだけどそれはそうでもしなければ孤独が溢れて収拾つかないので人間というのは同情心もあるから、そっちの方が救われるだろうし、救われることは幸せと共存するだろうと考えて行われてる。人間は一人ではいきられないとかもっともなこと確かにある。

それで先に自分に声をかけた人に遡ると、その人は女性で中高一緒の同年代の人だった。彼女は去年の11月に同期会が行われて連絡しようとしたのに誰も連絡とれなかった。幾つか最強ルートあったけど、全部ダメでなんかこの中には、子ども同士が同級だったので一方はアムステルダム❗うちの子はドイツだからそのルート辿ろうとの話まであったと話してた。その会では当然話題になり、強調してたのは死亡説こそなかったが重体説はあったらしい。名をのこさないというのは何を言われるか分からない。集まったのは大学教授や医者、その嫁さんみたいなの多いかった。ますます話題になるわこれはね、と思いつつもみんな心配してたはまんざら嘘とも聞こえなかった。そこが大事なポイントなんだと思う。

話が飛ぶけど苛められてる子に何か声をかけるとすると、まず最初の声かけは「お前はよく頑張った。一人でよく頑張ったな!」なんだと思う。しかしそれだけでは足りず「お前は、頑張っただけ、もう頑張らなくていいんだ!」が必要と思う。この二段重ね重ねがないと言葉はその力を失うと思う。お前を守るのは俺で、とまで言えなくても最早お前は孤独に耐えて一人で頑張らなくて良いんだよ、は出てこなくてはならない。全てのドラマの名台詞はそういう二段になっている。こんなダメな私ですが結婚してくださいだって二段構えだしね。

みんな心配してたよは半分くらい嘘だと思う方がよいのかもしれない。そうでないとこれから一人で生きていくのにより甘えが出るかもしれない…

 

その翌日だった東京に出てくるべく千歳までの空港バスに乗った。すごい混んでいて途中から乗り込んだから補助席まで出ていた。しんがりの自分の前の女性が二人座りしてた中国の人に一席開けさせた。でもぐずぐずしてたので言った前の女性は補助席に座ろうとした。ちょっと待って私が座るものでもないと思って彼女に普通席に座ってもらい自分は補助席に座った。席を開けさせたのは彼女だしね。

まぁ当たり前の倫理的所業だとも思うけど、このベースの根っ子には他人に!いや知り合いに見つかって、まぁ心配してたはそこそことしても何かグループ、見えない集団の一員だと発見されたことが無言の押しになっている。逆に言うと単なる他人との共生意識をいくら鼓舞しても人間の行動にさほど影響は与えない。他人はあくまで他人なのである。お前を多少とも知っている人があなたにどういう感情をもぅているかが大事なんだと思う。まぁ善意の麻酔も徐々に薄れつつある。色悪という歌舞伎用語を自で行く人生、又始めようではないか⁉