死んではいかん

三島由紀夫中村光夫との対談で、三島側は覚悟もう決めてての上だったと思うけど、誰が自分の死を止められる、そういう言を発する、それがその当時の日本でいるのか風な流れとなって、小林さんならし得るかの話が出てきた。その時代はそうだったその程度だった気がするし、今がその頃からどの程度変わったかは、人間関係でいえば稀薄になっているのであろうが、結局は覚悟を決めてる人間へのコミットとして、お前は死ぬな!と身体を張って止めに入る人間(友人や先生)がいない社会というのは基本的にまずい社会だと思う。父が生前旧制高校在学中、突然電柱に登ろうとし、それを剣道部の顧問の乳井先生が止めた話は父からさんざっぱら聞かされた話だが、その後父の乳井先生に対する敬愛は死ぬまで変わらなかったが、そういう先生が先生の立場として成立していないのはまずかろう。その時愛なのか情なのか人類愛なのかは分からないが精神及び生活の行き詰まりを見定める視線を持った人間がいてそれが制御機能を果たす社会が今は無きかも知れないが肝心なんだろ。今回の西部邁の自殺についても家族というのは最早止められるものではない。西部に対する先生という程度の人間は存在しないだろう。弟子筋友人関係も絶望的だろう。でもそういう人間がお前はもっと生きろ今は死ぬべきではないときちっと言える人物が不存在だったのは一体何が言論界なんだ、そうした徒党たちの人助けなどできないでいる奴らではないかの印象を持つ。まぁそういうところで働いている、周りは敵だと思ってもいただろうが、それでもやはり自殺するやつを止められない人間関係しかない社会はまずかろうと思う。