老クレタ廃墟記

今日はフェストスを回った。昨日クノッソスの後にエラクリオンに戻り午後行こうとしたがバスの時間に無理があった。早朝から出掛ける。途中ミレースで乗り換え9時のフェストス行きに乗る。僅かにして着く。着くと客は私だけだった。中を自由に見回る。殆ど瀬川三郎先生の回った順で。彼は昭和8年に訪れている。その旅行記ギリシャ昭和18年に出されてる。写真があるがそれは今から80年以上も前のクレタのこの地方の様子ということになる。本の中での地域の人との交流、その様子や風俗はその当時のものとなるが、それは相当に素朴である。至淳に近いものがある。翻ってではその頃昭和10年ころとは一体何だったのか。その当時のクレタ島ではない日本の様子や風俗や人心はどんなのだったのか。昭和10年の日本という時、それは今の日本人にとって何なんだろ、単なる軍備拡張に明け暮れてた時代だったのだろうかとそういう疑問がわく。今のクレタの人の心より勝ると感ぜられる当時のクレタのフェストス近郊の人々、それに似て、当時の日本人も案外素朴で純情で確かなしっかりとした人間らしいものであったのかもしれない。そしてそれはいまにしてみれば何か、四千年前に比し、それは80年前の精神の廃墟なのだろうか、今とは全く関係ないものとなったのか。

しかしながらやはりフェストス遺跡は全盛期から四千年もたち、とんでもない長い時間の経過はやはり見る視覚を失い、ルインはルインでしかないことを指し示している。唯一の救いは、そこにその時訪れた日本人がいたということで、その記録が奇跡的に美しい文章で残されているということだけである。それは私にも感動させる自分では開けられないその人を通じてしか理解できない歴史の鍵なのだと思う。それは追体験ではない。それは例えてみれば瀬川三郎先生というレコードを回転させ奏でさせその当時のメロディーを聞きつつ遺跡を味わう類いだ。少したち旅行団がやって来た。欧米人の高い関心は分かる(ここはイタリアが発掘した)、がそこには重要な鍵が欠けている。他の日本人が感じたことを、後世の日本人である私が感じること、その繋がりがなければ廃墟は単なる廃墟でしかないように思った。

土産を買い帰路につく。監視人?が日本人の技術とか何かを喋って誉めそやく。幸い、見終わった帰り道、バスがないのに通りかかったタクシーでミレ―スにまで早くに戻れた。タクシーの出現は神か或いは著者のオンチョウか。ミレースの町では路上に生活市場が立ちそれが延々と続いていた。エラクリオンまでの帰り路も本に出てくるような人はいないながら(変なおやじが携帯渡してみみたいな仕草取っていた)風景などは明るく晴れ渡り、気分は中中爽快だった。或いは瀬川三郎先生と同じものを所々観たのかもしれない。