この世の肯定性2

人生とかが肯定的であるのか否定的には受け止められたかは、そのどっちかという地平の問題ではない。肯定性か否定性かは同じ平面の問題ではないのだ。両者?は次元を異にしてる。そこは廣松渉の解く共同主観の考え方が理解を深める。彼自身がどう思ってたかはよく分からないんだけど、肯定性があって初めて共同主観が生ずる。人々は同じ思惟の土俵に立てる。否定されたとき、その時は共同主観などにはなり得ない。謂わば肯定性は共同主観へのキップである。だけど、そのキップを持ち得ないときは悲惨なことになる。共同主観から排除された人たちは個別の世界、個人で処理すべき内面と外界の世界に赴かねばならない。それは社会から排除されたということではないが、全て解決すべきは本人の努力に委ねられる。自殺者は集団から排除されたからそうするのではなく、自分の力で解決するように強いられるからそうするのである。肯定性を感じ得ない主観という、社会的なものが個人の主観に墜ちるからそうしてしまうのである。