廣松渉の主著について

岩波の文庫の中には世間の共同主観性の項目の中にデュルケイムの社会学再評価の記述部分が含まれてくる。これはこの人が非常に感がいい事を表している。単なる哲学的基礎だけでは飽き足らず、この世の中にはその基盤がわらわれの社会的存在、共に生きてる中にあるのだと関心を持ってたことを、納得しようとしている。その中でも特に道徳的基礎に何らかの解明口を探している。要するに我々が共に考えうるというのは、共に道徳的な基盤をこの共同体の中に置いてるから発するものなのだと発想している。これは本当かどうかはあんまり分からないけど、例えば先例のイジメの問題にしても、他人を愛せよ!という道徳規範からの逸脱とも見うるわけで、ソレを行わないことから、その対象が共同主観的存在から剥離していくようなことを表している気がする。我々が道徳的存在でなくなれば、あたかも社会という細胞膜は壊れ、共同主観の世界は崩壊すると言ってる気がする。或いはこれは誤読かもしれない。しかしその留保もつけつつ思うのは、例えば憲法、その憲法の中の平和主義条項というのは、要するに道徳規範ではないのかということであり、平和主義というのはただのお題目、されど意味深な道徳的お題目なのではないかということである。それは学級内の隣人を愛せよ、と全く同じ徳目、それ故に、そんなの出来るかと、容易に投げ棄てられる徳目、でもあったのでは、とその様な気がした。何も守るのがどうだと言うのではない。しかしアメリカ人が作ったなんか分からん、先駆けた憲法の条項の中には、将来コレで行こうとする日本の社会を規定する道徳律が含まれてた可能性がある。それは日教組がどうのとか、戦場には行かせない、との勝手読みを発生させつつも、ある種の戦後日本の共同主観を生み出す源泉としての共同体の様を規定してるところがあって、イジメがあるのと同様に、その道徳的要請に従わない事は、恐らく共同主観の崩壊~個人としてバラバラになるとの危惧が護憲グループにはあるのだろう‐。非常にまだるっこしいアナクロな道徳が今に適合してるかは良くわからんが、共にある為には、かつての天皇規範とか、戦後の憲法規範とかの社会をバインドするものがなければならず、それなくしては共同主観的存在としての日本人は、維持されず、ソレを変えるなら、更に強力な例えば独裁者とかが齎す規範とかが用意されなければならない。もうそれは着々と用意されてるのかもしれない。