インド人にびっくり

チェンナイに来た。着いて翌日ホテルから頼んだトゥクトゥクで一箇所海岸通りのヒンズー教寺院に回った。立派な石に彫りまくれた土台にがちゃがちゃ模造品のような意味ある非石製の立体曼荼羅みたいの上高く積み上げられ静謐な感じを阻害さす。入場には裸足となる。しかし御本尊本体?がある建物中に非ヒンズー教徒は入れない。その中を覗き込むと、仄暗いインドの闇が立ち込めてる様に見える。彼らの心の闇を照らす光も発されてる模様である。そこに来たれば彼らインド人には心の安らぎが得られるのだろう。同様なものを得たいと思ってもその特権エリアには入れてもらえない。神がそうするのであり、排除心は信徒に共通する。同じ方向での信心が違う方向の人間を排除するのは当たり前である。

そこで考えてみてるとインド人という人達は聖と俗との共有を当然視し、それが自分の人格の中にあること、否定しない人々である。俗から聖への一方通行の上がりも信じない。最後まで俗は人間に付きまとうものであり、それを癒やす為には最後まで聖が必要なのだと生まれてくる前からそう考えてる人たちだ。コレは弁証法だとすれば上に行くのだが上に行くのはセイブされている。この地上の平面の中に生きている。それが当然と考えている。それは目の前に小人がいたとする。それを眺める眼は日本では不具な覚めた視線であり、自分との関わりを絶ちたいと思うかもしれない。しかしインド人ならそこに恐れを見出す。転生を信じるなら、それはある時の自分の姿かもしれない。その不具は癒やされなければならない。治療されなければならない。手術されなければならない。そのために聖なる事は最大限必要なのだと彼らは思う。人間を見動物を見その他の生き物を見れば、それは自分とは無関係のものではない。己の外部にあるものではない。周り回れば全部自分と思うということは、それは目の前の第三者も同じという事で、ソコにこそ社会というもののベースがあると考えるに至る。聞いたことないが、そんな生き方だろう、ソコに神との共存共栄があるのは彼らの創造的選択なのである。俗から聖への解脱に関心はない。仏教は簡単に捨てられた。実際我々日本人もそんな生き方してる。俗から聖を望む人も多くてキリスト者仏教徒も繁盛してるが大抵は聖と俗とをうろうろする。どちらかというと俗に汚れている。それを手術する聖がなくてはならないと強く思うのが彼らで、その強く聖を望む部分、俗的生活が更に強大化することを意に介さない。それはあの奇っ怪な化け物的ガネーシャなんたら持ってきたときから始まる、彼らが祈り込めて作り上げた心の絵空事遊びの、満場一致に称賛すべき生きていくパワー全開ヘの、この世の世界の読み解き力の実践なのである。