モミジしだく、紅葉だく、揉みしだく

戯れにあの紅葉の葉の大スケールでの展開が広がるある山の中を考えてみよう。ぼくらはそこにしかいない。美しいのは勿論だ。山の中でせきとして鳥の声しか聞こえてこない。ぼくらは嬉しくなるんだけど、それがどういう原因なのかは本当には分からない。落葉が少ししか色褪せずに残り、木の上の所より地上を幾層にも重ね埋める。深さの尺度がきかず、踏み込むのが怖いなと思う程度になってる。でもこの木葉に溺れる感覚はどうして水中なんかより新鮮なのだろうか。私はその大柄紅葉を軽く胸に当て、少しだけ沈む感覚を遊ぶ。それは山の中の紅葉、布団感覚、そんな中、一枚一番綺麗で他と同様に落ちたとはいえ、立派なのを見つける。その葉を胸に当ててぐるぐると回す。それは決して揉みしだくではないけど言葉が似ている分自分の胸板を自分に付属してくれる。寂しい感情なのもしれない。こんなとこに来たのは全てを期待してのものでもないけど夕日の紅葉はみたかった。辺りに誰もいない。これ以上変な格好で見つかりたくない。しかしこういうことを日本の古代人はしていた気がする。辺り暗くなり急いでエンジンを入れ、下界の戻る。