モノには微妙な言いまわしというのがあって

亡くなった義父というのはこちらかすると元々は他人であるから、自分の親父に対するのと違って客観的、感情を入れないで見ることになる。それだけに見えてくる箇所がある。士ではない商売人だった。製造業ではあったが、人との交渉が巧みな印象を受けた。実に他人をよく見ていた。(晩年○○秘帳というその自己史の経済経験、をプライベートで本にした。ソレは誰も入手できない。)その経験からいうと、家族には甘かった。准家族だというので私にも甘かったかもしれないが、ソレは娘が嫁に取られてるからで本来なら違っただろう。そうした生前の触れ合いの中で今にして思うのは、実は自分の立場が弱いときのモノの言い方である。そういう時もなぜか余裕がある話し方をする。決して最後の自分の本当に弱いところは見せない、隠す。その時の喋りは、全くあなたの言うとおりです、結論として異議はございません。と、相手が要求してる理由云々に触れず、直ちに結論妥結に、しかも緩やかに持っていく。大抵他人というのは理由がこれこれなので結論としてこう持っていこうと思います、つきましては反論があればソレをお出しください、お出し頂けば当方も考えます、などの甘言の思想体系でくるが、こちらからお望みの証拠は出しかねますが、結論はそれで結構です、とあっさり処す。何らの証拠も残さない。その一例にもなるような、ま細やかな事が起きたので、今回それで行くことにする。