信仰について

パウロが遅れたキリスト者としてその神の理解故に代理人のように扱われ崇められた時、その時のパウロにおきた満足感と不満足感の入り交じった気持ちを現在の僕は想定しえない。そこには聖書という鉄の鎧がついた書物があり、人間キリストにしても人間パウロにしてもそのなかでの苦ギンというのは大きな価値を置かれないのであろう。その様に行動者というのはスカスカにされる存在でありそれは昔も今も変わらない。

武田泰淳を見れば江藤が指摘したようにスカスカにしてから殺された。それも同じことだ。今現在形でやっている辺見という作家のモチベイトも自分隠しのために布切れとして武田を善意者としての美旗として掲げているだけだ。その営易を越えるものとしての行動、多分それは端から見たら滑稽なんだろうけど、自分を無にし(そんなことできやしないのだが)行動も無であって、他人を動かすこと、それに浮かれたのがミシマさんであろうが、決してジシではないパターンの存在可能性が問われているのだと今も思ってる。人間大事なのは悪事を巡らす自分を想定することだ。悪事なくして心に善事は生じるはずがない。