国家と国民の男性性と女性性について

イザベラバードの朝鮮紀行をかじると十九世紀末の事情ではあるにしても朝鮮の未来を暗示してるところがある。そのターニングポイントが日清戦争のころではないかなと推測させる。どんなターニングになったと言うと朝鮮からみた宗主国の中国が敗れ去るところ、日本が浮かび上がって来るわけだけど決してそれは日本を認めるということにはならない。敗れてもまだ中国に従っていたいという国家意思、国民性があるというところである。青春小説風に言うと、お前あんな弱い奴と付き合わないでさ、強い俺と付き合えよ!と言っても、い~えわたしは中国君好きなの!とリフされる時である。そんなにお前中国君すきなのか、俺だって良いところあるぞ、と強引にシソ改正したってダメなのである。強姦的に併合なんてしたってかえって嫌われるだけであるぞ。そんな朝鮮という国家(仮にあるとしたら)は又その国民性というのはすこぶる女性的なのじゃないかと思った。昔好きだった人は一生忘れられない人たちなのである。全面的にこう考えると幾つかの事が裏付けられる。約束ごとを簡単に破る、慰安婦などの被害届が徴用工より先に来るし説得力あると思ってる、中国からなんかお前なんか要らないよと言われると急に寂しくなってなびく、こういう男性国家の戦争しあった男子国家の日本と中国の狭間にキーセン的伎芸の国として極めて現在では希な女性的国として北朝鮮と韓国はあるのだ。これまでの北朝鮮のホラを含めた脅しの文句すらあれは女断末魔の叫びのように聞こえてくる。耳のせいかな🍀