息子の帰還1-1

彼と連絡が取れなくて二年ほどになった。僕は時間が経つにつれ心配になり旅に出た。九州のいなか町へであった。先日の豪雨が影響して道路は分断されていた。それでも近くの温泉があるその町には復旧が早かったのか幹線づたいの道を使って意外に短い時間でついた。僕のバッグには相当前に彼の母親から送られてきた後ろが温泉街写真の表面には一杯に先日北海道の僕の町であったことへの感謝が書かれたハガキ一枚がしまってあった。その宛先の住所は僕が以前置いていた事務所の住所だった。彼は僕の昔の依頼人だった。

村田英雄の死ののちに

今日村田英雄おっちゃんの記念館に行ってきた。予想外に寂しい気持ちになった。現役でないしだからそれ程の大きさでもない。佐賀といえど唐津に近い場所、唐津市相知町にある。建物の趣から分かるけど元佐賀銀行の支店だったとこ。二百円入場料払って中に入って僕しかいなかった。グッズがあればと思ったけどそんなにない。切手セットがあったけど使い途がはっきり見えなかった。オレが村田だ人形でもあれば安んじて買っただろう〜

村田英雄さんはお母さんが浪曲の三味線師だったらしい。お父さんは人間だけど名前ははっきりしていないらしい。そのお母さんに抱かれた英雄坊や(本名は違うらしいけど、の写真がある。そしてその解説にお母さんは十分育てられないので姉弟子の何とかさんに英坊を託したとある。それだけで十分悲しそうなのに、そのお母さんが何年何月何日に水死したとある。村田英雄は両親の愛に恵まれなかったのを強く印象付ける太字サインペンでそこに書き込まれてる。相当悲しくなる。その子が少年浪曲師として刻苦べん例成功者になるまでの写真が自然となみだぐましく感じられる。あの笑顔の向こうに肩を丸めた父母の愛を知らない子どもの後ろ姿、成功してもどんなに成功しても浮かんでくる気がしだす。でもそれは現代の感覚で昔はそんなのざらだったから強く生きるのは普通だったかもしれない。唯一仕事以外の事で恵まれたのは嫁さんに恵まれた事だったと思えたけどそれも喜び悲しみの一つにすぎないのかもしれない。でもその人も村田さんの死より先になくなっている。お孫さんがいたのだから子どももいたのだろうからそれが生きがいかなとちょっと安心する。

村田英雄はあまり感情を乗せて歌わない。でもそこも相当いいんじゃないかなぁあの野太い声一本にかけてるとこが。吹けばトブような何か、多分それは歌の道、それに命を賭けた、そして賭けてばかりでなく努力して努力して遂には成功した(最初は無法松の一生~確かに一生だなんて題名に相応しくない~だって人生劇場だってヒットせず、王将の大ヒットでそれらの歌が見直されたらしい!のだから心底偉い人なんだと思いつつ館を後にしようとしたら係員がどちらからですかと聞くので遠い方がいいのかと思って東京から来たんだけど北海道と言ってしまった。もっとグッズ充実して欲しいとも少し言いたかったのだけど。

相知駅までの間王将の歌詞をみちづれのメロディで口づさみつつ帰った。

泉靖一は北海道ともゆかりがあったのか。著者が伊東秀子とゆかりがあるのはどうでもいいけど。


<訪問>「忘却の引揚げ史」を書いた 下川正晴(しもかわ・まさはる)さん:どうしん電子版(北海道新聞)

読んだけどというか読みにくくて読みにくくて泉靖一のことだけかきゃぁ良いのに余計事柄多すぎて閉口した。

泉靖一の青年性について

泉靖一は駒場に当時いたわけだから講義を聞こうと思えば何かあったのかもしれない。でもそれは文化人類学者として確立してた後だし表はインカとかの研究者でそんなに幅広いことなど分かっていなかった。その後で分かったのは彼がアルピノストで今の北朝鮮にあるらしい高山にも登ったベテラン登山家であること、そもそもチェジュ出身だし、昔の東大英文科の市河三喜先生が言ったチェジュは植生も違い、趣味の蝶も他の朝鮮や大陸とは異なる、そんなところから出てきて確か京城大学出身だけど東大教授となり(その頃はもう市河の方はいなかったかも)、そして札幌大学というのが創設されたときにそこをアジアユーラシアの一大文化人類学系の基地にしようとして確か江上波夫を送り込み、俺もいずれ行くといってたが無念にもそれを果たせなかった人、という程度である。ところが最近、本で泉靖一は終戦時女性が大陸で強姦されるなどして妊娠した、そういう女性達を福岡近くの二日市保健所で多分堕胎施術を施すことに関与していると知った。なんというたくましいおっさんやろ。いやその当時は無名の青年だろうか?そういう日本人がいてね、先の議論の三島さんの日本に生まれたことによる日本-愛することの先天的プリヴィレッジに対する大いなる反論ともなるかなと思ってきた次第…🌠でも本までてに入ってない。

三島vs福田1

福田恆存先生の子どもが親のことを書いている。その本を自分が読む関心は晩年の恆存を知らないことと、やはり最大関心は三島由紀夫事件前後の宿命的ライバルだった両氏があの時日本をどう思って眺めてたのか、そこには双方相当程度西洋文学の本質をこなしてたいたもの同士少しの違いでも西洋vs日本受容の(当時限定とはいえ、相貌が見え隠れしないかというものであって、今や此をなす必要もないかのごとく日本優越でも日本憂鬱でもいいけど軽々と先のさらに先の議論をしている人たちに、ちょっと待った!を言いたい気持ちを込める部分、それが今の時代に多少逆行するもよし、なのかしらと思って読む関心なのです。さっそく三島が福田に言った「あんたは暗渠で西洋に通じてる」から戦闘開始モードで(この部分スタートは息子さん冴えてる)、それに対して恆存プラス逸さんとで晩年恆存が書き残したり、丸めて棄てた原稿(当時もう恆存先生は脳梗塞下にあったらしいけど家族であるからそうしたものでも持っている。しかしそうした紙くずを文字通り拾い読みするもので直接的言辞はなく、この部分論理的な推理箇所で中々読ませる所である)を拾い三島由紀夫こそ「あんたは暗渠で日本に通じてる」か「あんたこそ暗渠で西洋に通じてる」の恆存先生が言いたかったのはどっち!の二つ文章解釈を恆存死してのち、時間を置いて家族問答に移る。この現代性は福田側の方が死後評価が高いことと関連している。最早三島さんがわは劣勢なのだろう。しかし其にしても、この「暗渠」という言葉、正にあの時代の知識人への網的な言葉だったんだなと思うし今やそういう網言葉はもう使わない使えないのだろう✨その今時の堂々とした西洋文明との自己距離感が一体いつの間に出てきたのだろうと思う。

自発性

動物生態行動学なんだけどそれを分子レベルで研究している、おんとし九十にもならんとする大沢文夫先生の近時のキャッチはゾウリムシみたいな下等動物でも自発性があるというものだけど、何かチョイスするとき、いやこっちでなくあっち、と選択するのと(謂わば丁半博打性的なこと)、なんか少しは考えたらこっち選ぶは、との区別が分からない。後者なんてあいつはなんとなく好きでない、だから嫌、という場合の自発性だってあるんだし、ゾウリムシと人類の自発性という概念の違いはあるのではないだろうか?✴️

強い者と弱い者

本当に面白い福田恆存がいて泉靖一がいた両者の対談集にも取り上げられている「日本人の価値観について」というこの両者以外の人も参加してるのだけど、そこで福田恆存が強いものが勝って弱いものが負けるという生きのいい日本古来の価値観(それはもう西洋文明知った以上成り立たないのでとしたうえ)に戻れないという。戻れませんよねぇ…相撲取り白鵬が相手が負けそうだからって助けたり手を緩めたりしないでしょ!✨強いものが勝ち弱いものが負けるという基準が元々日本人にあるとしたら、今はその是正をいっているような時代なのだから良い時代ということになるのだろうか?✴️