幸せがないのは不幸ということではないについて

インド人が零を発見したのは昔から教えられていた。それはMathematicaの話である。しかし生活の中にもゼロがある。それが幸せがゼロであってもそれは不幸であるとは意味しないことである。恋人がいなくても(零でも、不幸ではない。高卒で大学行けなくても、不幸ではない。要はそんな風に無い事はないだけの意味でマイナスなんかではない。むしろゼロが原点なのである。それが生活の中の零思想であり、インド人が取っている考え方でないのかなと見てて思った。幸せがないからと言ってそれは不幸に転落したわけではない。ゼロから始めるのに何の感傷もいらない。それは普通のことだ。落ち込む方がおかしい。そんな生き方してる気がした。だから多分他人とも比較しないし、競争もしないんだろ。

インドの金的原則

東京に戻り頭がぼっとしてる。インドに魅惑されたわけではない。そんな道を歩きたくて行ったのではない。でも垣間見えるものからでも少しインドは見えた、そういう気になる。そんなに話をしたのではないけど一件フェイスブックをフォローしあった。彼には二人の小さな娘がいる。高卒らしいけど懸命に働いてる風、週に木曜土曜とヒンズー教教会に行く。あそこに入ると霊的何かを感ずる。ノルマでない信仰、裸になって入るのは多分心もネイキッドにするためなんだろ。向こうにも変な新興のがあって裸心に忍び込んで金を貢がせることもあるらしい。こっちもXJAPANのトシの話をした。悪いというか心につけこむ人はどこにでもいる。日本もインドも大きくは変わらない。そうそう、クリケットの一番強いのはチェンナイのチームらしい。それかチェンナイ出る飛行機の中でクリケットのアプリやってる人がいた。何というか聞いたらBig Bash Crlketというらしい。ルールもわからないけど実在の選手が出てきて打てないとしょげてベンチ帰ってのがかわいい💞

インド人のこれが生き方かなと思ってるのは取り敢えず2つ、一つは競わない、二つ目は格好いいことは求めない。おそらく実インド人はそんなではない。コレは恐らく彼らの宗教心から来てるものであって彼ら自身は自ら変えられない生き方になってると自分は思ってる。言っても違うと言われるが、コッチに参考としてこんなかなと思ったのはその2つだった。いま空港で時間がない追々説明することにしましょう。

インド人にびっくり

チェンナイに来た。着いて翌日ホテルから頼んだトゥクトゥクで一箇所海岸通りのヒンズー教寺院に回った。立派な石に彫りまくれた土台にがちゃがちゃ模造品のような意味ある非石製の立体曼荼羅みたいの上高く積み上げられ静謐な感じを阻害さす。入場には裸足となる。しかし御本尊本体?がある建物中に非ヒンズー教徒は入れない。その中を覗き込むと、仄暗いインドの闇が立ち込めてる様に見える。彼らの心の闇を照らす光も発されてる模様である。そこに来たれば彼らインド人には心の安らぎが得られるのだろう。同様なものを得たいと思ってもその特権エリアには入れてもらえない。神がそうするのであり、排除心は信徒に共通する。同じ方向での信心が違う方向の人間を排除するのは当たり前である。

そこで考えてみてるとインド人という人達は聖と俗との共有を当然視し、それが自分の人格の中にあること、否定しない人々である。俗から聖への一方通行の上がりも信じない。最後まで俗は人間に付きまとうものであり、それを癒やす為には最後まで聖が必要なのだと生まれてくる前からそう考えてる人たちだ。コレは弁証法だとすれば上に行くのだが上に行くのはセイブされている。この地上の平面の中に生きている。それが当然と考えている。それは目の前に小人がいたとする。それを眺める眼は日本では不具な覚めた視線であり、自分との関わりを絶ちたいと思うかもしれない。しかしインド人ならそこに恐れを見出す。転生を信じるなら、それはある時の自分の姿かもしれない。その不具は癒やされなければならない。治療されなければならない。手術されなければならない。そのために聖なる事は最大限必要なのだと彼らは思う。人間を見動物を見その他の生き物を見れば、それは自分とは無関係のものではない。己の外部にあるものではない。周り回れば全部自分と思うということは、それは目の前の第三者も同じという事で、ソコにこそ社会というもののベースがあると考えるに至る。聞いたことないが、そんな生き方だろう、ソコに神との共存共栄があるのは彼らの創造的選択なのである。俗から聖への解脱に関心はない。仏教は簡単に捨てられた。実際我々日本人もそんな生き方してる。俗から聖を望む人も多くてキリスト者仏教徒も繁盛してるが大抵は聖と俗とをうろうろする。どちらかというと俗に汚れている。それを手術する聖がなくてはならないと強く思うのが彼らで、その強く聖を望む部分、俗的生活が更に強大化することを意に介さない。それはあの奇っ怪な化け物的ガネーシャなんたら持ってきたときから始まる、彼らが祈り込めて作り上げた心の絵空事遊びの、満場一致に称賛すべき生きていくパワー全開ヘの、この世の世界の読み解き力の実践なのである。

野火(ヤカ)の如く今日も生き4

近松の実家は信二と同じく通った中学校の校舎の真ん前にあった。大きな昔でいう所の精神病院、近くに大きな邸宅があって一分もかからず通学していた。病院施設には当時、鉄格子が架けられ、時々は中の病人がその隙間から腕を出し、意味不明な大声を出していた。病院名の「近松」という声もかかる時があり、信二と近松が学校の帰りに歩いてると、その声に近松はギョッとした表情を浮かべ、やがて苦笑いをした。病院は五歳上の姉がその地方の医大に入り、あとを次ぐ予定となってる風であった。一人息子(その下の子も女だった)の近松に両親は期待してたようだが、近松はそんな職業には付きたくないと中学生の頃から断っており、両親としては長女をとりあえず医学部に入れて、近松の心変わりを待っているのだと、信二は親同士交際のあった自分の母親から聞いていた。近松家が経営する病院は盛況でその父親も毎年のようにその地方の所謂所得番付の上位を占めていた。信二は近松がなぜ親の職業を継がないのか、よく話したことはなかったが、近松の方でも、将来の夢を語ることもあまりなかった。それが少しづつ変わって行くのは、同じ公立の高校に進学してからのことである。

野火(やか)の炎の如く生きよ7

その後、近松と信二は二人だけで近くの酒場によった。真下は一緒を躊躇ったので、まぁ良いよとは言ったけど、近松は信二とだけ帰りたい感じを信二は受けた。それで真下のビルを出て、近松の行きつけのスナックに行くこととなった。その店に入るとカウンターだけの小さな店で客はいなく、ガランとしていた。近松はいくつかのそういう店にたまに顔を出す程度のようだったが、それでも何時もどこでも歓待されてる感じを信二は受けた。そういう店に共通してるのはどの店もおばさん、それもかなり酒場歴のあるおばさんが、あまり他に女の子を使わずにやってる店というところだった。その店のママは近松の顔を見ると、アッらいらっしゃい、とはしゃぐような声を最初出した。その後も、なんとなく浮き浮きとした感じで、漬物を出したり小イワシの焼き物などを出してきた。近松はママと話してたが、その話しぶりは、ママが話す内容を少し揚げ足を取るような話しぶりだった。それにママが反応して、笑うと近松は個別の会話には入らず、人生ではどうだとか、そんな一般論にすり替えて話を続け、そりゃそうね、とママが応じると、適当に笑いでごまかした。妙に男と女の会話ではないような気に信二はなった。ママ達には一様な生活の疲れみたいなものも感じ、信二は会話にも入らず、カラオケを専念するように歌った。信二の歌うときの声は高音で変声期を経験してないような声だった。近松は歌わず、その日は酔うと決めてたように、飲んでママとくだらな話をしていた。何曲か歌い、他に客もこない感じがしたとき、ママは「こんちゃん(その店では近松はこんちゃんと呼ばれていた)あれやってよ」とせがむように言った。近松は信二の顔を一瞬見て、ヨウシと立ち上がり、「楽屋、楽屋、」と言って、カウンターの内側の客の椅子からは見えない場所に隠れた。近松は結構酔っていた。ソレを見計らってママが声をかけた感じが信二にはした。やがて、予めママが入れたカラオケの曲を大音量にしたときに近松は現れた。

日本の文化受容のある種のパターン

自分は無添加食品を拡めよう、のグループFBに入ってる(自分から発信したことはない)ので、英国でもドイツでもその種のお店によったりする。結構凄いとこもある。種種も手広い、歴史もある、食哲学の徹底など特にドイツなんかでは感じる。一言持ってる人も多数いそうな気がする。コッチは無理論だからそういう取り揃えの隅っこを齧れれば上等だと思いつつ、その日本のFB見てると、所々教条主義みたく感ずるのだけど、でもその中にそれぞれが固くこれだと、例えば添加物排除にしても、単純に決めてけるのだけど、それが次々とコレがいいコレがいいと引っ張り出してくる。それが間違ってるとはいえない。というか、こんなに信念として己と食品との間で弁別作業をするというのは、欧米から全て食べ物が入ってる訳ではないのに、この小さな国で、相当な熱情だと思う。誰かが、仮に添加物が入っててもそんなに寿命に影響しないと研究結果発表しても恐らくその強い信念は揺るがない。彼らの魂を揺らすことはできない。そしてふと思う、こうした信念とか情熱なくして、西洋の考え方は日本人の心の中に入ってこなかったのではないか、ある種の教条主義がなければ日本は文化受容ができないのではないのかな、と。いやいやそれは凄いことである。みんなその種の信徒になるのだから。

島倉千代子の東京

島倉千代子は予想に反して東京生まれらしい。京急線青物横丁駅の電車乗車時音楽には人生色々がかかる。その近所で育ち、父親の職業は警察官だったらしい。阿久悠にしても和田アキ子にしても、親父が警察の人だと子供はキチッと成長して国家的逸材が育つという法則があるのかしら。さてその東京の人、島倉千代子には東京だよおっかさんという名曲がある。戦後にか田舎から出てきた母親が息子が眠る靖国神社を慰霊のため訪問する。靖国には御霊が不可分離にミックスされて祀られてるから、個別には慰霊できないけど、そこに来れば息子に逢える。この時の様は、例えば島倉千代子の実質的ライバル(島倉千代子の方は一方的に尊敬し、その一歩下がった姿勢はまたまた島倉さんの人の素晴らしさを感じさすが)の美空ひばりの九段の母の歌詞では、神と祀れもったいないけど、金賜勲章が見せたいばかりに持参してやって来たとある、でも島倉千代子のおっかさんの息子はそうではなかったらしい。或いは特攻兵だったのかもしれないな!。

でもこの二人の戦後のディーバが戦争史観として、あの戦争を肯定してたとはいえない。島倉ディーバには九段の母と真っ向から対向するひろしまの母というのあるし、美空ディーバにもその種の歌、一本の鉛筆とかも歌ってる。歌手の芯としては共通なものある。その両者、実際の人生では島倉千代子の方が年上なのに長生きし、中々厳しい人生だったらしいけど、きちんとして男に騙されたりしながらも歌バカ人生を全うした。そこを尊敬する。さてここからなのだが、偶々島倉さんが最後に吹き込んだのはからたちの小径という南こうせつに作らせた、からたち日記繋がりの中味もメロも古臭い歌であり、本人も覚悟してたように、それが最後の白鳥ソングになってしまった。その声の衰えはどこか書いたような気がする。自宅に機材持ち込んでの録音は多分参加者に感動以上のものもたらしただろうと推測される。その歌の感想を2年ほど前ツイートしたのを忘れてて、誰かがRTして自分で思い出した。その中に、からたちの小径の三番の歌詞がズキンと来るとか、書いている。さらに、その後の録音はいるかのなごり雪島倉千代子が歌ってるのが入っていて、その「東京で降る雪は」の発音、その東京の発音が東京だよおっかさんの東京の発音と瓜二つで、二倍泣ける、と書いてある。何十何年かまえの録音と同じ発音で録音して息を引き取ったと言いたかったらしい。具体的に言うと、東京を普通の人は大抵とーきょうと発音する。駅の人もとーきょうと呼んでる気がする。しかし東京人の島倉千代子?はトウキョウと発音する。うはふに近く、とふきょうとも聴こえる。伸ばさない発音でうを強調するのは東京人の癖かもしれない。ある調査で東京人の中で東京生まれの人の割合は、というのがあり、田舎者は少なくて53パーセントくらいあった。でもコレは調査方法として両親が東京生まれの人の割合を出していて、子供を入れれば二人子供がいればそれだけで50パーセントは行ってしまう。その人の両親と祖父母まで東京生まれを要求したらグッと東京での東京人の割合は減るだろう。更に東京をとうきょうと発音できる人というフィルターをかけたらもっと減る。問題はそんなところに全くなかった。問題というのは実は島倉千代子さんが歌ってる東京だよおっかさんの涙ソングの歌詞には一箇所も東京が出てこないのだ。二重橋とか九段坂とかはありますが、ズバリ東京はない。あれ!?間違ったのかな?

それからしばらくして思い出した。なんかこうではなかったか。東京だよおっかさんの吹き込みにはいくつかあって、その一つに歌の冒頭のセリフとして、最初の語りでボロンと「東京だよおっかさん」というのを聞いた記憶がうっすらあるような、気がする!。島倉千代子の東京はだから謎が多い。