帰去り難児、いざ3

実は禎一の周辺では一つの騒動が勃発していた。禎一は西洋史の一部の学会に帰属していた。当時の戦時中にあってはことのほか国史の分野の教授等が幅をきかせ禎一の属する大学も西洋史東洋史問わず同じような傾向があった。東洋史での中国への扱いは一部格下扱いをするのが既定の方針であるかのように強いられ、それは中国の過去の歴史や文化に心酔して東洋史の教員になったものの心胆を寒からしめた。ある先生は当時新聞等で表現されていた「散華」という言葉はその語義として単に天井で水を撒くという意味しかないのだと書いたがゆえ国粋に反すると指弾された。禎一の指導教授にもその種の遺漏があった。それは戦時においてはさほど支障がなかったが終戦後問題が発生した。彼は戦時中、あるヨーロッパの都市で起きたある民族の武装蜂起がドイツにより鎮圧されたことに触れ、それをその民族の歴史と皇国日本の歴史との異別と日本民族の優越をわずかだが学内の報告文として書いた。それは同盟国ドイツ(実際その先生はドイツの中世史の研究者だったのだが)を支持するつもりだったがナチスのある民族に対する迫害を肯定するものとも受け止められかねなかった。それが敗戦後にGHQ が日本に入り、その種の教授のパージの際に問題となっていた。