この世の肯定性について

空港にはどこに連れてかれるのか母親に沿って小さな子供が動く。まだ小さく、服装もあって男か女かの区別もつかない事もある。何かを無作法に或いは不躾に頬張る。母親は電話をしている。窓ガラス越しに飛行機が離発着しそっちへと届かぬ腕を差し出す。姉もいる、随分若いときの子供なんだ。

ふと思い出す。何も喋れないとき、あの時の幸福不幸をとおてもそれはしょうがない。でもわたしが生きてこれたのはとまで言うつもりがないが、でもしかしそこには何かの自分を肯定的に受けとめてくれた何かが見えない感じで、しかしそれは感じられるレベルで存在してたんだろ。ソレを今思い返しても何だったかは分からぬが、親の愛とか、そういうレベルより低いか高いかも分からず、そしてそれは自然の明るさなのか社会的な囀りなのかもわからないけど、確実に自分をはめ込んでくれる肯定的安らぎがあったのだと。死はそれらを全て覆すことであろう。そういう進行も始まっている。むしが良いが、迎えられて送られるのが良いのだけど。