論より証拠こう

池田弥三郎の本に単に論より証拠というのではなく、それには付け足しがあって「論より証拠、藁人形」というのが正しい?んだと書かれてる。これを単純に思えば、検察とかの立証の趣旨にはそれに沿った証拠が必要だという現在の用法の他に、コレは思念界と現実界とは違うのだと捉える用法も出てくるように思う。呪い殺、というのは何ら証拠を残さぬ犯罪である。江戸時代なんてそれで死んだという因果関係が推定されても頭の中の世界その中身を誰もが得心するように見せる事はできない。でもお前の持っていたこの藁人形は一体何なんだ、動かぬ証拠だと言われれば本人も一般通常持っているものでもないから申し開きはできない。しかも五寸釘が刺さった跡でもあると御用になる。どこか人間には付属品がついて来る物で、頭の中でだけの犯罪は実行行為ではない。必ず対象相手にアタックするにはモノを使うものなんだ。そこら辺お江戸の人達も分かっていた。人権意識ではなんでもないんだろうが思念というものに手を焼いてるとこは現代以上のものあったんだろう。