この世の肯定性3

謂わば、目前に満ちて見える世界からの肯定的な受け入れというのは、一種のSIMカードの承認のようなものなのではなかろうか。それが装着され通信している時は他人と共同主観的に会話をし、認識をし、その一員として暮らせていける。しかしそうでない時、通信が閉じたとき、その時は個人としての苦しい戦いが強いられ、会話も共同認識も同じような主観の共有を持ち得なくなる。それに打ち勝つ人、耐える人もいるにはいるが大抵は敗れる。ソレを救うのはそう簡単ではない。救おうとする人と救われるべき人との間には共通のSIMカードは最早ないからだ。その辺を誤解する善意の人は結構多い。しかし救うことは困難なことなのだ。手を差し伸べるだけでは足りないことがこの世の中にはあるのだ。ではどうやったら救いは訪れるのか?