海外ツアーというやつ1

最近は個人旅行よりツアーの客になることが多い。個人より面倒でない、でもツアーはやはり面倒でもある、そんなとこを書こう。

今年になって一発目は雲南だった。大理とか麗江などを回るが昆明は例のぺい線だけよっただけであまり雲南の美味は味わえないツアーだった。旅行社の中には中国5000年クラブとか称して中国に特化している一部分を持っているところもある。そういう旅行社はその固定の客がいて中国は広いから行き先を変え次々と征服する方面に出かけている。そういう人が結構いた。今回はイタリア絶景のたびでそれにインスブルックがくっついていた。イタリア絶景とはアルプスと湖とドロミテとそれにラスペティア方面がついている、これを十日で回るからバス移動は結構長い。

 

ポイントは参加者なんだろなと思っていた。参加地も中国は名古屋今回は東京だった。人情も違ってるそう思っていた。今回は名古屋より浮いた、そのことを中心にしよう。

その前にこのツアーへの参加の意図だが以前コモ湖のベラッジオにとまったことがある、インスブルックには一度行ったが相当前で記憶が薄れている、しかしちょっとまえに行ったカールベームの生まれ故郷の同じオーストリーグラーツは本当にいい町だった。そしてドロミテの入り口のボルツーノにはいやな思い出がある。それ以来ボルツァーノとかの帰属が国で争われたとこはいやなやつらが住むもんだと勝手に決めていた。アルザスなんかもそういうことになるが真実は分からない。

そんな断片を貫いて本ツアーは絶景ばかり見せると謡われていた。それもむいいだろう、イタリアアルプスには行った事がないからね、そんな気持ちで申し込んだ。

だからとだけどの間

五輪真弓の抱きしめてというのは不安の気持ちがあったけど男を徐々にすきになり、別れが来るかもしれない気持ちで、そのささやかな幸せにしがみついてたけど、男から俺たちやっぱり別れようと言われて、私はこんなにこの男を愛し手たのかを知る、けれど別れるんなら何かしたい、抱かれたい、最後の最後に抱かれたいと言い募る、そんな気をだから抱いてとの理由なんだろ歌うんだ。この一番は男がまだ具体的なことを言う前の気配の時に、私はこんなに深く愛したのただから「だから」抱いてと言う。これはなんとなく男は分かるから抱くのだ。二番は少し深化する。二番は運命は残酷だと、なぜかと言うと一番のように深く愛しすぎると別れるという運命がやってくるそりゃ残酷だろう。それでもこの女はわかったはと言って乗りこえようとする。運命としての諦め、再出発の意思を固め、あなた無しでも私は生きるん、別れる決意が育まれてくる、そんな中でも抱きしめて❗と相手の気持ちを促すそれは女のなんと言うたら言い気持ちなのか?そして私はそのようにしたわでも抱いてほいしというときの言葉はだから抱いてなのだろうかだけど抱いてなのだろうか?別れる言葉を聞いて他に手段はない、私もこれから自立して生きてく決心固めました。あなた無しでもわたしは生きるの〰️。その時はそれでも抱いてなのではないだろうか?ここがだから抱きしめてなら男の引いた道をクリアした、その結果なのだからたがらとなる。しかしそうじゃなくて痛かった別れ話自分なりに努力して克服したの、そこには涙や血があったわ、それをあなたは見ようとしないし分かりっこない。別れるための最大努力しても津「重ねしてもそこにはちょっとした空激があるのだとしたら、二番はだからではなくだけど抱いてではないのだろうか?

五輪真弓の「だから」と「だけど」

五輪真弓は数々の好い歌を作り歌っている。中にはインドネシア辺りでは知らぬものがないという心の友のような名曲もある。正直それ程のヒットがあった訳ではない。大御所ではあるがメロディーとか歌詞が飛び抜けて新鮮というものではないように思う。まぁ淡谷のり子が絶賛し自らも歌った恋人よなどは中では代表的な曲になるのかな。こうした恋愛ソングは彼女に多いと思う。その点松任谷とか中島とか対抗馬もいてそれぞれ個性的でまたそれぞれの個性の違い、恋愛観の相違みたいなものほぼ同じ時代の空気を吸ってるのに微妙にある気がする。

今問題?にしたいのは抱きしめてという彼女の曲だ。彼女の個性の一対一が崩れる失恋の時の女心の歌だ。私の好きな曲だ、彼女特有の別れの際の女のへなへなを歌っている。その点恋人よと共通だが恋人よはある意味堂々としているが抱きしめては崩れるような状態下の自分を歌っている。歌詞は単純に最後の別れに最後に抱きしめてと歌っている。実際の女は丈夫な人が多いから簡単には崩れない。男から別れ切り出されても泣かないだろうし最後にダイテくれとは頼まんしそうも思わないだろう。

その歌の歌詞に中にトイウカ一番二番共通で「だから抱きしめて」と出てくる。でも自分は一番は「だから抱きしめて」でいいけど二番は「だけど抱きしめて」の方が相応しいような気がいつの頃からかトクニ最近はするのだ。詳細は次にまわす

安倍改憲3

三島さんの自衛隊の中での訓練の中での純粋な或いは至純な国防の人としての自衛隊体験は決して見るものを見ない結果ではないだろう。利用されることは百も理解した上での観察だろう。ここで脱線するが最近三島割腹の際の腹の傷が小さく死因の多くは斬首によるからとの三島腰抜け説が柄谷行人などから出て来ている。いずれも死のインパクトを薄める後知恵のように思う。当時の報道を聞いたときの愚かしさなど微塵も感じない、それでいて単純に天皇とかとも結びつかない憂国感は生き残った者たちに覆いかぶさって来るに十分だった。全てのもの、作家としての未来や家族やその他諸々を捨てまさに疾走していく狂喜な美だった。だから自分も三年ほど憂国忌九段会館に行った今からすると思い出がある。だからといって靖国神社に行こうなどと思うこともなかった。

安倍改憲2

自衛隊の中には親自衛隊なのか嫌自衛隊なのかを分類するセクションがあるようで嘗て自衛隊の庁舎の中でセレモニーを企画した際(当時入っていた団体の為、そんな感じを受けた。自衛隊の存在を肯定的に捉える人かそうでないかに敏感な感じを受けた。それを超えてリストアップされているようだった。それは自衛隊が肩身が狭いとずっとそういう扱いを受けた結果なのだろうか。もう一つの経験は嘗て知り合った元女性自衛隊員がなぜか妻子ある現役自衛隊員と不倫をし女房と別れるの言を信じているようだったが予測ではそれは望み薄のように思われた。それとショウガツのころの同級生に真駒内自衛隊勤務の父親を持つ友人がいた。しかしながら全ての中で当時という事情が有るにしても国を護るという思想は感じられなかった。

安倍改憲

嘗て三島氏の市ヶ谷突入にあっては激に自衛隊が現憲法下では存在が認知されておらず、謂わば私生児のような扱いでその存在を否定するその現憲法を力でもって変えようとする自分らに賛同し決起するものが自衛隊員の中に居ないのかとの呼びかけがあり、あのバルコニーでも彼は叫んだ。しかるにその自衛隊員の反応は冷やかなものであった。そこにこそ問題がある。今回の安倍改憲は私生児を認知しようとするものである。そこにも問題がある。三島由紀夫楯の会自衛隊員と共に訓練し(今ではそんな事出来はしないが、当時はおおらかだった、自衛隊員というものがジュンボク純粋で国を護るという使命をあからさまに忠実に行おうとしている姿勢に打たれた。そのような感覚を保った。それが激の中にもあった、楯の会父親のような自衛隊に育てられた子どものようなものでという感想なのだろう。 ここでの理解は自衛隊員というものを職業的に扱うのか、もっと国体護持のように扱うのかという感触の問題でやはりソレは天皇の存在、そのあり方と絡む。市ヶ谷の反応の冷ややかさは冷静に国務防衛の感覚なのだろうかな?寧ろその仕事を離れれば国家とは何時でも決別する感覚なのかもしれない。[以下続く、

魔都ロンドンの真実に迫る?1、河上肇って

ロンドンに今回来るとき、前とまったホテルの近くに墓場があってバスでの帰り道興味あって降りその箇所(結構大きい、を散策?してみると、墓碑銘というのかin loving memory of 誰それと大抵書いてあったのを見ていた。愛する人の思い出をただ綴ったもの、日本にもあるなという気がしたけど考えて見ると日本の墓石にそんな書き物なんてない。前買った河上肇の祖国を顧みてという岩波文庫本の中にロンドン(ここ漢字の倫どんというやつ、の墓地というのその後発見した。河上が観察したのは自分のホテルとも近いロンドン西郊外のチズウイック、今回の旅行にその本持ってきている。