堀米庸三と札幌2

東京に戻り東大に勤め始めた頃の一シーンを書いた文章のなかに札幌の記憶に関するものがある。堀米さんが日本橋の今もあるか知らぬがぼなーるという喫茶店を訪れる。ボナールはフランスの画家で昔は結構流行った。ボナール自身は素朴な人で長年連れ添った嫁さんにした人が際ものでそれに晩年死んだのにその親族に苦しめられたことが昔の芸術新潮に出ていた。彼はそこへ行くのを楽しみにしている。そこにはユトリロの一枚の本物ではないがあった。それを見て堀米さんはこう感慨する。「多分、札幌から東京へ居を移して間もない頃だった」「一枚の絵が目に留まり釘づけにされてしまった。それがユトリロだった」それはアンス風景という田舎町の風景画だった。

「この絵を最初に見て感じたのは、そこにある光のなんともいえぬ清々しい明るさであった」

中国人の持つ自然志向1

百度という地図マップは中国に旅行する際には必需品である。彼の地ではGoogleマップは使えない。それで百度を使わざるを得なくなる。

その百度地図は日本にも使える。或いはヨーロッパで使えるのかもしれないがヨーロッパはGoogleマップで十分なので百度地図の出番はない。或いはヨーロッパの中で中国人がどういうお店を探したりしてるか比較すれば良いのかも知れないがそれはなんとなく無駄だしなんとなくしたくない。

その百度地図が自分のすんでいるエリアである札幌にも適用?され自分の住んでる家も表示される。うちの前には若者たちに指示されている有名なカレーやさんの支店があるのだがそこは中国の人そんなにカレー好きでないのか表示されていない。

 

所で昨日辺りから百度地図の画面で自分の居住するエリアを少し広域にしてみるとその地図の主要地域にやたら公園の表示が出てきた。名前聞いた公園もあるがある程度整備された例えば平岡公園とかも出ているが名前聞いたこともない公園がやたら出てくる。

こっからいきなりちょっと飛躍的ケツロンナノダガ中国人というのは案外自然派志向なのではないだろうか。う

安倍首相の「こういう人たち」

アキバで安倍さんが選挙応援演説してる際に安倍やめろ的コールするその彼ら或いは集団にたいしこういう人たちに負けるわけはいかない。自民党はそういうことはしない…とのたまわった事件?について色んな見方ができるのだと知った。これを安倍さんが首相として言ったのであり自民党総裁として言ったものでないからおかしいという意見、これに対して漫才の京大出の頭のいい人は違和感があると言った。又は首相は国会ではヤジに対して止めてくださいと言いながら自民党のヤジについては止めよとは言わない事がそもそもおかしい、野次止めの資格なしというのもある。少し考えると最初思ってたようにこの程度の選挙妨害にキレる人格もどうかとおもうけど、言いたくなる気持ちも分からんではない。でもこれは言ってはいけない表現は「こういう人たち」でないかそこに原因ありはしないか

堀米庸三と札幌1

1東大の西洋史の教授だった堀米庸三先生(以下敬愛の気持ちは変わりませんが敬称は略します。というか恩師でもない人を取り上げるのは基本的に失礼なのかもしれないし、しかし何となく心ひかれるのは堀米先生が北海道を贔屓にしているのをやはりよしとする気持ちがあるからでしょうか。)が終戦直後に北海道大学の教官として約十年間勤めていたのを知る人は少ない。東大時代がある種の輝きを持って語られるのに比して札幌の十年間はまだ若く、それ故学者としては充電の頃であり、謂わばどんな研究者にもある転勤のよう扱われるからかもしれない。しかし先生の本を読むならこの堀米庸三にとって北海道札幌時代はあらゆる生活のアクションが激流の如く押し寄せ交錯した時代であったと思われ、そしてその周囲にあった北海道札幌の風景の描写に接するならそこでの自然に癒された青春の一刻であったと感ずるのは当然であり、当時を刻んだ文章の中には一枚の大作の自然の絵画が描かれてると感ずることしばしばである。北海道がある意味育てた有為な歴史家その当時のことを先生の本を頼りに綴りたいと思う。

犬のモウショ3

パパは東京で建築家として勤めていたことがある。しかし身体を壊し、ママの実家がある北海道のこのある程度大きな町に移ってきた。ママの実家は昭和の初めから続いてる菓子屋だったけどお兄さんがおじいちゃんの跡を継いでいた。そしてここで妹は生まれた。生まれながらの右腕のハンデで保育園でも独りぼっちだったのだけどモウショを拾って育てるようになってから少しずつ明るくなっていった。パパは建築士なんて止めてママのお兄さんのお菓子やを手伝うようにママのお母さん、おばあちゃんからよく言われたらしいけどずっと断っていた。お兄さんはまだ結婚していなくて、或いはお兄さんの後は僕が継ぐみたいな話もあったようだが、僕は僕でお菓子やさんなんて嫌だった。僕はアニメ制作がしたかった。その為に東京にもう一度出たかったからもしかしたらパパには東京に戻ってもらいたくて、だからお菓子やさんのパパなんて想像したくもなかった。

犬のモウショ2

モウショには右前足にハンデがあった。歩くときはそんなに目立たない。走ると右肩を落とすぎこちない走りになった。一生懸命に走るのは最初は見てておかしくてかわいいけど一緒に無理して走らなくてもいいよと抱き上げたくなる気持ちにさせた。妹は散歩しててもすぐ抱き上げようとした。妹にも同じようなハンデがありママはそれをとっても気にしてた。パパとの話で遺伝子でなく自分のお腹の中でできたこと、みたいな言い方をしてた時もあった。妹がモウショが捨てられてるのを見るに見かねたのはそんな気持ちの一つのつながりがあったのかもしれない。僕の好きな作家の村上春樹さん風に言えば人は少しの悔悟と少しの悔しさと、そして多少の罪と多少の罪滅ぼしのはざまで生きている。そんな首輪のようなものがつけられてる。それはいつまでも続くわけではないのだろう。そんな感じを受けたこともある。モウショはでも小さくて逞しくて可愛かった。モウショとの生活はその後約2年ほど続いた。そしてしばらくして来たあの夏で終わった。モウショは歩くのと花とそして妹が好きだったのだけど。

犬のモウショ1

僕のうちにモウショが来たのは夏の暑い盛りだった。妹がご飯を残し、それをどこかに運んでいく気配があったのをパパが感ずいて、隠れてご飯を運んでいく妹をつけてって近くの公園の側の壊れかけた家の中に入って行くのを少したって妹が出てきた後、妹にわからずに入って行き、そこで白と灰の色をしたモウショを見つけた。パパはその後ママと話し合ったようだ。ママは最初嫌がったようだがその後自分でも見に行って最終的には妹の気持ちを考え飼っていいよと妹に伝えた。その時の妹の顔の変わりようを今でも僕は思い出す。妹4歳、その年の夏は特に暑かった。だからモウショとパパが名前を着けたのもそんな意味もある。