息子の帰還1-3

ホテルにチェックインをし荷物を置いてすぐにハガキの住所を探しに外に出た。その日は霧が深くて前方百メートルほどしか前が見えないホテルからの坂道を降りてくとバス停のそばに椎茸の漬け物やがあった。そこに入って見るとメニューにおぜんざいと出ていた。其を注文した。最初少し時間がかかりますと言ったがその後30分掛かると店の女の人は訂正した。なんとなくぜんざいを待っている雰囲気でなくなった。僕はカウンターに近づきそこでハガキを取り出しその住所を示し確認しようとした。その店に偶々ZENRINの古い地図があった。それで彼の母親が書いてきた住所の一角を地図で見た。見るとその家の名前はなかった。いつ頃の地図か聞くと今から十年ほど前のZENRINの地図だった。そこにないとすると家族はもうその辺には住んでないんだろうと思った。少しがっかりした。詳しい事情は話さなかったが住所確認の際相手方もそのハガキの住所とともに内容を少し読んだみたいだった。母親からうちの事務所へのハガキというのが興味を引いたようだった。なければ現地に行ってみるしかない。バスの路線を教えて貰い店でなにも食べず外に出てそのバス停に向かおうとしたら店の人がバス停の位置は分かりにくいからと案内に一緒に出てきてくれた。また来たときに椎茸とか買いますと調子を合わせ彼女と別れた。バスは中々来なかった。30分ほどしてバスはきた。僕は彼女の言ったバス停で降りるべくバスに乗り込んだ。そのバスの停車する場所は原といった。店の人は原と書いてはると読むのですと教えてくれた。そのはるで僕はバスを降りた。

チベット論4

チベットが国家として独立を志向した時、敵は中国であった。毛沢東らとダライ・ラマとの会談があったと案内人も言っていた。話し合いでは解決できずチベット侵攻の形になったのであろう。中国にしてみると過去の歴史からして宗教集団が厄介なものと承知していただろう。でもチベットにあるゴビとかの核実験もしうる無人の荒野はメリットもあったのではなかろうか。近くの危険な因子を抑えたいというのは当時の軍事力と革命中国の発展膨張主義からすれば当然のことだった。しかし当時から時間を経た現在の時点からみると今やその軍事的制圧は上記メリットという当時の価値観だけではなく、振り返れば、文明一般の侵攻という側面を帯びていたのであり、中国という国家はその文明の尖兵に過ぎなかった。そしてこれまでの間全くチベットは文化国家として自らの運命を切り開いて来なかったとみうるのではないだろうか。この21世紀においては遅れスリーピングしている地帯のチベットは国家として改造を終えつつある先端文明国の中国と政治以外に対立軸をもたず、それは国家として対立では最早ない。文明の対立であり、先進国と後進国の植民地支配の原形要素があるにはあるが、既に勝敗は決している。仮にチベットは今後独立国家としての承認を取り付けたとしても早晩その後進性故に国としては行き詰まってしまう危険性が感ぜられる。これは江戸末期から明治にかけての日本の後進性が直面した欧米列強との国家間格差と甚だ似ているのである。あの時の日本というのは韓国併合の時の韓国と同じであり、そして今の中国に併合されたチベットと同じ立場だ。そしてそういう時にこそ天皇制というその国家の眠っていた国家基本性格が現れるてくるのだとおもう。其はチベットの場合にはチベット仏教であり、ダライ・ラマであったりとの違いでしかない。

チベット論3

チベットというのは今から振り返ると宗教国家だったしラサは聖地の一つでなんとか大神院みたいな所では五体とうちするチベットピーポーが沢山いる宗教都市だった。イスラムのイランみたいな所かも知れない。ピーポーらの心の中には宗教感情が飽満しチベット仏教がその生活に占める割合は80パーを越えていると思う。その宗教源義は死後の世界の構築であり、それから逆照射されての現世生活だった。生きることは将来的な死後の生活のためにある。ある意味とてもまともで敬虔な気もするが、おい待てそれだけが生きるの意味合いと突っ込みたくもなる。現にチベットピーポーの都市でのルックスはチベットが西藏という位だから西部の荒野、荒野の西部そのカウボーイみたいな所があった。なんかウェスタンなんだチベットって✨まぁ土地柄アジアの西部ってところもあるしね⁉身体もでっかいし🎵そこで繰り広げられている西部劇ってのは今のよでいうと鎖国ということなんですね☀鎖国か開国かみたいなとこあった。

チベット論2

成都の夕刻バスから見かけたのは公園に集う結構な数の中年から後年にかけた中国ピーポーの男女だった。それらのピーポーは集団で愉しげにダンスをしていた。音楽もかかってた。日曜日だったと思う、明日からの勤労があるか知らぬが、そこには厳然たる生の謳歌があった。日本人はまずしない。盆踊りで老若男女が集まるかもしれないがその程度。中国ピーポーは金もかけずダンスに興じてる。これはひょっとしたら東洋一般はそういうものなのか知れず日本だけが近代化の過程でどんどんそういう大衆の楽しみを落としていったのかも知れない。その集団化された一般庶民の中国ピーポーはラサのことなんか考えておらんだろ。自分の娯楽に忠実なだけだ。その光景を見ていて一体ラサの抑圧されたチベット人と中国人とのどっちが、仮に抑圧が解けたとしても幸せなのか考えた。そして日本人は口で民族自決等ときれいごと言い、併合についても反省したりしてるが、当時のつけこんだ心理の中には幸せを分かち合いたいみたいな、文明教えちゃる的要素があったんだろかなと思った。

チベット論1

先日チベットのラサにツアーで行ってきた。まぁ死ぬ前チベットみとくのも良いかもなと前から思ってた✨あれは日韓併合みたいなやっちゃいけないこと感覚でもいた。中国のセイネイから青海鉄道ではいり帰りは空路成都によった。ツアー客9人のうち6人が一応軽い高山病で~ホテルに医師看護婦が待機しててなんか色々検査してあんた危ないとの脅しかけられて、注射点滴されて、証明書発行して後は日本で保険会社と交渉して、としくまれた風でもあったが~一応手当てしたら翌日からけろっとしてた。現地ガイドはチベット人でツアーガイドに言わせると以前は中国人ガイドだったんだけどやっぱり中味も様子も一言で言うと愛国的で違う感じらしい。要はチベット仏教をどうするかだ。ツアー客のなかには分かります分かります、日本は中国の横暴を非難し皆さんの独立心応援してますよとガイドに話しかけてる人もいた。日本人の平均的心情はそんなところだろうか。それでその時はそうかなと思ってた自分の気持ちもあれ少し見方違うかなと思ったのは夕方空路ラサから成都ついて取り敢えず麻婆豆腐食うためにバス移動してるバスの中から成都の町並みとそこにある公園などに集う中国人の群れを見たときだ。

息子の帰還1-2

彼の母親からのハガキには次のように綴られていた。「先日はお忙しい時間にお会い下さいましてありがとうございました。⭕が迷惑がっているとのお言葉に本当に情無い想いをいたしました。私は、三人の子供の皆が可愛いいのです。心配をかける積りは毛頭ありません。元気で幸せにと祈る許りです。彼からの便りは諦めました。でも、一方通行でもかまいません。私からは姉・弟の消息をいたします。どうか住所を変えない様にと祈る思いです。今後共おせわになりますが、どうぞよろしくお願いいたします。かしこ」

これからすると姉と弟がいる。母親が亡くなっての兄弟関係が心配だった。この先会えるのか不安だった。

だめだめ日本語論

橋本治+橋爪大三郎のだめだし日本語論の対談読んでると話者双方が橋で始まる名字だからどっちが言ったかわからなくなる。ここは百尺竿頭すすめて橋本は本と橋爪は爪と表記すべきじゃないのかね✨本さんと爪さんとの対談なんて大江健三郎の世界の登場者みたいな感じでよくないかい…🌠そこまで日本語に気配りしてよ~