永六輔の渥美清譚

永六輔渥美清とは永六輔が戦後どさくさで鉄くずなんか拾って買ってもらうことなどしてた時に買手の子供に対しても決してピンはねしないお兄ちゃんとして出会ったそうだ。それは実験したこと。渥美清が芸能界に入るきっかけ作ったのはあるお巡りさんで鉄くずを拾って売り捌いてた渥美清を補導した際「お前は一度見たら忘れない顔だ。フランス座(当時流行りのストリップ劇場)に行け」と説諭して渥美清は真に受けてというのではなく心の中悟ってフランス座に行ったとある。コレは渥美清から聞いた話だろ。少しして渥美清がテレビに出るようになり先の永六輔が「そろそろマネージャー付けたほうがいいですよ」と親切にアドバイスしたら近所の無職のおじさんを連れてきた。このエピソードは実験したんだろうな〜。海外に連れて行ったら毎日毎日「お袋、俺元気!」とだけの葉書を母親に出していた。ここらから本論に入ってくる。渥美清は売れるようになってから住まいの所までタクシーを乗りつけることはなかった…近所の人に今の立場をひけらかしたりしない、それが下町に生れ偉くなったり金持ちになったりしてもの品性なんだと書いている。そんな人生でないから分からんが品性というのはディグニティということだろ。なんかのきっかけで実際はそうではないが背丈がスッと伸びる様な感じだろな。三島さんと中村光夫の対談でも同じような話出てきてた。晩年になればなるほど品性=ディグニティにこだわるウザさあるが一つの論であることは理解した。

息子の帰還2-2

訴訟は簡単に勝訴した。相手はあっさりと判決に従ってお金を払った。父親は最初お金を貰ったがそこからはお金を貰わず全額彼に渡した。それだけだった。彼がそれでもどのように考えたかは推測でしかない。裁判所って正常なんだな、法律って大したもんだ、この弁護士やるな、全額とはありがたいもっと取られると思ってた、幾つかあったんだろうが弁護士は二番目くらいで一番は法律というのは力になるということだったんじゃないだろうか?でもそれでは彼は心の奥中で感じてたことを自らに隠してることになる。正義は貫かれる、いや正義は貫かれるべきだという感情や確信が裁判のやり方次第で上手くいく。そんな漠としてるが妙な信念が初めて裁判なぞに接してひそかに強くなったのではないだろうか。そんな気が今から振り返ると僕にはする。それは決して彼のみならず通有なものだろうが彼には強く印象つけられたんだろ、戦うという姿勢トイッテモいいことが。それは彼の孤独の現れに過ぎないというのに。

息子の帰還2-1

彼がうちの父の事務所にやってきたはもう30年ほど前だ。父もまだ壮年の弁護士で働き盛りだった。そればかりでなく夜な夜な近くの飲み屋に繰り出しては午前様の日々でもあった。ぼくの仕事については父も跡継ぎを期待していたが父親譲りの飲んべえで司法試験には落ち続け結局別の法律関係の仕事についた。それで資金もなく父の事務所の一角で共同とは言うものの全てお金は父親持ちで仕事をさせてもらっていた。それほど広くない事務所では目の前で依頼者と父との法律相談をみることになる。彼の相談は労働事件、端的に言えば大した金額ではない給料の未払いだった。生まれた土地から随分離れたこんな土地の運送会社に勤務しそこで巻き込まれた事件だった。僕の勘では父はこんな少額な件受けないだろうと思ったが案に相違して受けた。彼が喜んで帰ったあと父は気になったのか彼の顔のハンデを話した。その内容はそれほど酷いものでないとしてもちょっと言えない。父の何人かの兄弟姉妹の中には同じようなハンデの人がいたのかもしれない。それがなんとなく父の性格に触れるものがあったのだろう。でもそれは最早聞くことはできない。

担々麺について

キャセイ香港のラウンジではこの会社あまり儲かってないらしいがソコソコの香港風なもの出す。茶の選択肢もあったりレベル高いと思う。麺パオ系カウンターもあり最初ワンタン麺食べた。コレは普通だったんだけど、次に担々麺頼んだ。担々麺というは普通日本でも中国でも挽肉か小粒浮いていて辣油が周辺にあって後カラニガなどちらかというと油っこい感じしてそれが四川風なんだと思う。でもココのは違う、ごまダレ風の麺がそれに絡んだドロンとしたツケ麺風だった。ツケ麺と言ったらおかしいか、ごまダレ絡め麺だった。ニガ辛くないやつ。コレは旨いよね。日本ラーメンにも色んな系分けあるけれど担々麺、も色んな種類有りや無しや。そういえば表示も担々という字でなくて木編に造りが櫓の右側だった気がする。それとも少し違う科?

相撲の伝統の遠源について

いつ相撲の様式が確定したのかは知らないが、相撲の中には「ぶつかり」というのがある。正面から胸と胸とを直進させて当たっていくという手段。あれは柔道にもレスリングにもない方法だろうか?あれは庶民というのはぶつかりぶつかり生活していることの日常にベースを置いてるのではないだろうか?イヤそもそも自己主張の衝突を上手く解決できないのが日本人なのかもしれないし、案外ぶつかることが庶民的ストレスを発散する方法として日本人には適してるのかもしれない?特に俺からぶつかったんじゃない、向こうからぶつかって来たんだという余地を常に曖昧に十分残してるぞ…ぶつかり稽古は☀

中華料理のパオ

中国機内の機内食での感想である。軽食っぽいものだった。なんか肉でも野菜でも包むものにPAOってある。包という字を書くと思う。肉マンみたいな中身が詰まってるというか中身を食べようとするときの包み込んだパターン。中身は当然見えない。朝食会場では説明があるから分かるが普段何入ってるかわからない。なんでこんな中味がはっきりしないのたくさん作るのか。日本の料理には寿司ネタに巻物という包み方がある。しかし巻いているだけだから外から中身見える。見えるというより見せている。完全に包み込まないのが日本流である。一方このパオという包む感覚は中華料理の至るところにあったような気がする。包んで味を閉じ込める。その思想、というか、発想には中国人というのは包み込む事が大好きなんだろうと思わせるとこある。包み込まれることに快感を感じる人たちだという気もする。中国人同士は相手に対するとき案外相手を包み込むように接するが好きなのかもしれない。丸め込むという言葉もアルコトだ完全にすっぽり包みこんであげると彼らは案外喜ぶのかもしれない✨逆に日本人は外から何もかも見せてしまう傾向あるのかもしれない。私はこういう人ですと見せたがるのかもしれない。それはあんまり得策でない。自分の考えも包んで提示すると受けるというか案外大物に見えるのでないかな。イヤ人間関係はやっぱり相手を風呂敷よりしっかりした露出ないかたちで包んであげるべきだと思う✨