この世の肯定性3

謂わば、目前に満ちて見える世界からの肯定的な受け入れというのは、一種のSIMカードの承認のようなものなのではなかろうか。それが装着され通信している時は他人と共同主観的に会話をし、認識をし、その一員として暮らせていける。しかしそうでない時、通信が閉じたとき、その時は個人としての苦しい戦いが強いられ、会話も共同認識も同じような主観の共有を持ち得なくなる。それに打ち勝つ人、耐える人もいるにはいるが大抵は敗れる。ソレを救うのはそう簡単ではない。救おうとする人と救われるべき人との間には共通のSIMカードは最早ないからだ。その辺を誤解する善意の人は結構多い。しかし救うことは困難なことなのだ。手を差し伸べるだけでは足りないことがこの世の中にはあるのだ。ではどうやったら救いは訪れるのか?

この世の肯定性2

人生とかが肯定的であるのか否定的には受け止められたかは、そのどっちかという地平の問題ではない。肯定性か否定性かは同じ平面の問題ではないのだ。両者?は次元を異にしてる。そこは廣松渉の解く共同主観の考え方が理解を深める。彼自身がどう思ってたかはよく分からないんだけど、肯定性があって初めて共同主観が生ずる。人々は同じ思惟の土俵に立てる。否定されたとき、その時は共同主観などにはなり得ない。謂わば肯定性は共同主観へのキップである。だけど、そのキップを持ち得ないときは悲惨なことになる。共同主観から排除された人たちは個別の世界、個人で処理すべき内面と外界の世界に赴かねばならない。それは社会から排除されたということではないが、全て解決すべきは本人の努力に委ねられる。自殺者は集団から排除されたからそうするのではなく、自分の力で解決するように強いられるからそうするのである。肯定性を感じ得ない主観という、社会的なものが個人の主観に墜ちるからそうしてしまうのである。

この世の肯定性について

空港にはどこに連れてかれるのか母親に沿って小さな子供が動く。まだ小さく、服装もあって男か女かの区別もつかない事もある。何かを無作法に或いは不躾に頬張る。母親は電話をしている。窓ガラス越しに飛行機が離発着しそっちへと届かぬ腕を差し出す。姉もいる、随分若いときの子供なんだ。

ふと思い出す。何も喋れないとき、あの時の幸福不幸をとおてもそれはしょうがない。でもわたしが生きてこれたのはとまで言うつもりがないが、でもしかしそこには何かの自分を肯定的に受けとめてくれた何かが見えない感じで、しかしそれは感じられるレベルで存在してたんだろ。ソレを今思い返しても何だったかは分からぬが、親の愛とか、そういうレベルより低いか高いかも分からず、そしてそれは自然の明るさなのか社会的な囀りなのかもわからないけど、確実に自分をはめ込んでくれる肯定的安らぎがあったのだと。死はそれらを全て覆すことであろう。そういう進行も始まっている。むしが良いが、迎えられて送られるのが良いのだけど。

桜田淳子ブーム再来

ここに来て、還暦であるからと、桜田淳子様が芸能活動のようなものを約10年のスパンで興すようです。反対派は桜田様に会見を開いて、そこに当然押しかけて、如何にあの団体がヤバイかを喧伝しようと図ってるように窺えます。謂わば力対力、どちらも主義主張があるようですが、少なくとも最近の画像のサングラスの下の桜田様の眼の凄みは、ふん何言ってるの、教会もファンも関係ない、私の中にあるモヤモヤとしたもの、消しても消しても消えないダイナモは抑える事は出来ないの、(併せて都内で何かやってる、旦那の仕事も支えたい?、と問わず語らず、訴えてるようにも見えます。そうした一部獣化して見える、桜田様の炎獣(円熟でない)の歌声聞きたいな、と思いますが−‥やはり世間はそうはさせないのでしょうか。

男のファッションブーム今昔

昔も今も男性はファッションに関心がなかったなどということはない。自分にしたって前はさほどと思ってなかったけど、ある人にいうと貴方は以前は服装に構わなかったけど、変わりましたよね、という時期を経て来てる、少なくとも他人の目を意識仕出した時期は第三者にも分かるらしい。そういえば何となくそうかなと思うあの時はある。それは多分男性にはそうだあの頃とみんな思える時期があるのだろ。でも、ソレは関心を持ったというその時であって、その時点から徐々にセンスが磨かれた?という時期とは時間差がある気がする。

中学生高校生くらいのとき、ファッション雑誌といえばメンズクラブ。平凡パンチとかプレイボールとかPOPEYEとかあったんだろうけど、田舎から見る都会東京への羨望を含んだ視線のある先は、その方向性を与えたのはメンズクラブだった。今も雑誌あるのだろうか。三峰というのは田舎にはなかった。どこが本店かも分からないけどコレも今もあるのだろうか。行ったのは新宿紀伊國屋書店の隣位の所だった。そんな本で初めてブランドというのがあるのを教わる。デザイナーというのがいて、その人は毎年春秋くらいにデザインする。集団で作るわけでないんだ。誰もが着る服を作るというより、私はこういうの作りたいから作った、どうぞ着てください、きっとあいますよ、あえば隣の人とは大違い!そんなとこまで分かったわけではないけれど、その人の世界というブランドがきっちりあるのを教わった。三峰だったら、アレキサンダージュリアンとか?三越だったらフォーマルがらみでオスカーデラレンタ、セザラーニ。そうかGUCCIとかあの種の高級ブランド知る前に、男性服デザイナーの名前を覚えたのか。ソレもちょっと変な話だな~結局大学生の中でおしゃれな人向きなのを、少し前の年齢で雑誌を覗いていわばパクってたんだ。でも当時の意識、いわば着たい欲望の源泉は決して女の子向けではなかった。どうしてなんだろ。服は調達できても中々女の子は調達できなかったからかな。アメリカの青春ドラマなんかでは女の子とパーティーに行くネタで、家ん中で家人のアドバイス受けたりする、そういうシーンあるけど、日本男子にはそれはない。少なくとも当時はなかった。純粋にファッションに恍惚してたとしたらおかしいけど、何となく薄っすらと男の子であってもファッションが自分をチェンジさせ前向きにする力からが有ること感じてた気がする。

FMチューナーのよしあし

エアチェックというのが趣味というものの中に入るかどうかは分からない。ただ音楽を垂れ流し的に聴く人も多いのかも。でもそんなかには一回性みたいなもう二度と聴くことあり得ない音源もあるわけで、本見たく定着出来やしないけど、残しておいて回想したくなる事もあるわけで、そうなると録音機の他にチューナー、それも良いチューナーが欲しくなる。そうなると趣味という所まで昇格するのかも。

今最高はアキュフェーズのT−1100なんだろうけど、そしてソレは本当にいい音だけど昔の銘器というのも探したくなる。そこでネットで落としたソニー5000Fの話となる。

 

コレは昔の製品だからVariableとFIXとのアウトプットになってる。エアチェック派は音量揃えたいからvariableが大好き。所が、この落としたやつは猫の片耳みみだれみたくアンバランスで御座いまして、右出力が左より音量が小さく、仕方なくネットで見た九州の修理屋さんに出した。結構時間とカネカかって戻ってきたけど、それで東京で鳴らしてたんだけど、どうも雑音も拾う。アンテナが東京タワー側で、最近のマンションの改装でテレビアンテナ端子からのFM波の受信が全く出来ず大いに困った。その後にアキュフェーズの持っていったらさすが現代の機械だからある程度感度は上がり使えるけど、このソニーは昔作品だから弱い。またつけっぱなしにしてたら今度は左右違いで、受信量も変わって録音にさしつかえるようになった。捨てようかなとも思った。そんなに愛着もなかったし。でも同じ捨てるなら、こっちの方が袋に入るなら燃えないゴミとして捨てられる。東京では大型ゴミで多分500円のシールとか出し日とかうるさい。それと電波感度コッチの方がいいので試したいという気持ちもあった。謂わば最後のチャンスを与えたのである。ここ二三日戻ってきて、昨日から聞くとモタモタしてたけど、案外音に実存感があるやつだ。ブースターみたいなの噛ますとあんまりバランスも悪くない。でも感度メーターはフルとはいえない。静音のとき小さくざわざわする。しかし音のくっきり感が聞いてて生々しい。もう少し様子見ようと思ったら、いきなり左右がアンバラになった。やっぱりだめか、お前は最後のチャンスも活かせないで死んでいくのか!寝た。

今朝、違うチューナーも何かアンバランスなので結線直してて再びチェンジして聞いて上げたら、気のせいか雑音もこびり付かなく音のぴょんぴょんさ聞こえてくる。

ゴミとしては捨てられない。いつまで続くかチューナーに聞いてほしい。でもこの重い器械は大事にこき使いたいなと思えてきた。

西部さんの死の心理学

今回旅行するときに携帯した本のなかに西部ススムのファシスタ云々とかの標題の本がある。部分的にしか読んでないけど(少し読みにくい)子供の頃、障子に火をつけたエピソードが出てくる。祖母に消し止められたがその祖母から「この子は恐ろしか子ばい!」と罵られた話となっていっる。今回の自殺はその責任を「死をもって償う」に似ている。彼の特攻隊とかペリリュウ島の死守兵士への共感は尋常性が破壊されている。死に場所と死ぬ時節に固執がある気がする。さすが人びとはそれを見抜いてる。追従者はいないし、その様西部さんがわも配慮している。知性の最後なんてあっけない。あの世に持ってけないのは金ばかりでなく、知性だってあるよな。そんなもん増やしてもしょうがないのに、殖やそう殖やそうという輩がいる。まぁ彼の場合存分に他人に振る舞ったようだしな✨  金ばかりでなく知性も天下の回りものかもしれませんね。