堀米庸三と札幌1

1東大の西洋史の教授だった堀米庸三先生(以下敬愛の気持ちは変わりませんが敬称は略します。というか恩師でもない人を取り上げるのは基本的に失礼なのかもしれないし、しかし何となく心ひかれるのは堀米先生が北海道を贔屓にしているのをやはりよしとする気持ちがあるからでしょうか。)が終戦直後に北海道大学の教官として約十年間勤めていたのを知る人は少ない。東大時代がある種の輝きを持って語られるのに比して札幌の十年間はまだ若く、それ故学者としては充電の頃であり、謂わばどんな研究者にもある転勤のよう扱われるからかもしれない。しかし先生の本を読むならこの堀米庸三にとって北海道札幌時代はあらゆる生活のアクションが激流の如く押し寄せ交錯した時代であったと思われ、そしてその周囲にあった北海道札幌の風景の描写に接するならそこでの自然に癒された青春の一刻であったと感ずるのは当然であり、当時を刻んだ文章の中には一枚の大作の自然の絵画が描かれてると感ずることしばしばである。北海道がある意味育てた有為な歴史家その当時のことを先生の本を頼りに綴りたいと思う。

犬のモウショ3

パパは東京で建築家として勤めていたことがある。しかし身体を壊し、ママの実家がある北海道のこのある程度大きな町に移ってきた。ママの実家は昭和の初めから続いてる菓子屋だったけどお兄さんがおじいちゃんの跡を継いでいた。そしてここで妹は生まれた。生まれながらの右腕のハンデで保育園でも独りぼっちだったのだけどモウショを拾って育てるようになってから少しずつ明るくなっていった。パパは建築士なんて止めてママのお兄さんのお菓子やを手伝うようにママのお母さん、おばあちゃんからよく言われたらしいけどずっと断っていた。お兄さんはまだ結婚していなくて、或いはお兄さんの後は僕が継ぐみたいな話もあったようだが、僕は僕でお菓子やさんなんて嫌だった。僕はアニメ制作がしたかった。その為に東京にもう一度出たかったからもしかしたらパパには東京に戻ってもらいたくて、だからお菓子やさんのパパなんて想像したくもなかった。

犬のモウショ2

モウショには右前足にハンデがあった。歩くときはそんなに目立たない。走ると右肩を落とすぎこちない走りになった。一生懸命に走るのは最初は見てておかしくてかわいいけど一緒に無理して走らなくてもいいよと抱き上げたくなる気持ちにさせた。妹は散歩しててもすぐ抱き上げようとした。妹にも同じようなハンデがありママはそれをとっても気にしてた。パパとの話で遺伝子でなく自分のお腹の中でできたこと、みたいな言い方をしてた時もあった。妹がモウショが捨てられてるのを見るに見かねたのはそんな気持ちの一つのつながりがあったのかもしれない。僕の好きな作家の村上春樹さん風に言えば人は少しの悔悟と少しの悔しさと、そして多少の罪と多少の罪滅ぼしのはざまで生きている。そんな首輪のようなものがつけられてる。それはいつまでも続くわけではないのだろう。そんな感じを受けたこともある。モウショはでも小さくて逞しくて可愛かった。モウショとの生活はその後約2年ほど続いた。そしてしばらくして来たあの夏で終わった。モウショは歩くのと花とそして妹が好きだったのだけど。

犬のモウショ1

僕のうちにモウショが来たのは夏の暑い盛りだった。妹がご飯を残し、それをどこかに運んでいく気配があったのをパパが感ずいて、隠れてご飯を運んでいく妹をつけてって近くの公園の側の壊れかけた家の中に入って行くのを少したって妹が出てきた後、妹にわからずに入って行き、そこで白と灰の色をしたモウショを見つけた。パパはその後ママと話し合ったようだ。ママは最初嫌がったようだがその後自分でも見に行って最終的には妹の気持ちを考え飼っていいよと妹に伝えた。その時の妹の顔の変わりようを今でも僕は思い出す。妹4歳、その年の夏は特に暑かった。だからモウショとパパが名前を着けたのもそんな意味もある。

海外ツアーというのは4

今思うと、この浮きというのそうした同年代の夫婦とか個人としての参加の相違ではなかった。ある一人参加者は一人参加者だけのテーブルの時妻がもう死んでること、二人で定年後の居住先をバリにし既にコテッジも買っていたことを話してた。また内の誰かはイタリアが今回初めてで妻が経営者で自分はなんか地位だけ社長のような話をした。またある一人参加者は高校卒業らしいが色々多趣味な話もした。オープンな所はオープンだった。私はあんまり自慢もできないのでそういう話は差し控えた。いや差し控えたというのはカッコつけすぎそもそもそういう話は苦手なのだ‼️自慢話は得意なのに子供でもないからできない‼️その他の話題、中国や韓国人やゴルフや東電の責任とかでたがそういう社会性のある話、サラリーマンなら基本的にある地位以上の人なら雑誌や新聞で知っておくべきことが知らなさすぎた。原発の話ならGE が東電原発脆弱性の情報流してたかどうか一年前の正論に載ってた話知らないでもないがそれが一般人社会で知りすぎなのかどうかなんて分からない、それで付いていけずだった。いやはや何としたことかを

海外ツアーというもの3

そもそも60過ぎてこの種のツアーに参加するとい人はそれなりに理由がある。このツアーはイタリアの主要都市とか著名な観光地は見た人向きのツアーかもしれず、又その年で夫婦で手掛けるというのはまだ現役世代だったときとは違うだろう。子育ても終わり旦那の会社勤めも終わり夫婦で家にいてもまぁしょうがない、ちょっと面白い所にでもいこか感覚なんだと思う。それに引き換え自分はどうなんだろ、或いは一人参加者の他の人はどうなんだろ、余計なことを考え始めた。いや当時はそんなこと考えなかったが今あんまり雰囲気良くなかった理由を考えると何か出発点の相違もあるかなとも思う。いややはりそうではない、なんか別口で60過ぎ男の生きざま問題がそれに絡めてある。そもそも一人参加なんて生きざまと関係してないわけがない。絶景の旅なんて口実でみんな悩み解消のために旅たつのかもしれない、なんかそんな気持にもなってくる。あとは差し障りなくグタイテキニ書いてみようかなと思う。

海外ツアーというやつ2

参加者は20名個人参加は男ばかり四名だった。あとは夫婦連れが10組くらい、女友達同士が何組か、全員自分より年上だと思う。

普通は若い夫婦とか若いオーエルとかいるもんだがいなかった。問題は個人参加という人とおしゃべりなというか元気な退職後の夫婦でないかと思う。今回もそこでつかえた。特になんで個人参加、いい年をしておくさんどうしたのと思っている人はなんとなくさしさわった。こちらも若ければ多少教育的にもなってくれたのかもしれない。少し怪しげではあるがまあ一方通行のたび、前向いて適当にごまかしたりして十日の日程こなしましょうという自分は少し浮く。しかも大問題は話題提供能力がないということである。

花に詳しそうな人たちも結構いた。低地だったが高山植物もロープウエイでのぼると見られたようであるが植生の高低差など分からぬものにとって的確な質問も回答もできず話題かできない。

自分にとって植物というのは世の中に日本ばかりでなく世界中関心があり特にガーデニングとかに興味を持ち、行った先ではボン郊外の本当にでかいガーデニングショップまるで公園のようにあったなというくらいで知らない人に対してこれは話題にならんだろう・

それなら聞くように質問文を考えてコミュニケーションをとればいいのだが、なんと言う名前ですかときいてもわかりませんと返ってくる。だんだん追い詰められていった。